瞑想する人の多くが、想念が想念であることには気づいていない。想念の中身を想念と呼んでおり、想念という単語自体が概念であり、想念でしかないことには気づかない。つまり、想念を物質や形態として扱っていない。
もっと分かりやすく言うべきか。「想念を統御しよう」と我々は言う。それは「Aを統御しよう」と言うのと同じであり、Aは想念である。Aの内容物ではなく、Aがそもそも思想である。これは理解が難しい可能性がある。
弟子が働きかけるのは、想念の内容物ではなく、想念自体である。それはメンタル・フォースであり、そのようなフォースの集合体が一箇の想念である。人間はこのような想念の中に住んでいるが、弟子は想念の外から働きかける。人は頭の中に生きているが、イニシエートは頭の埒外から働きかける。魂からマインドに働きかける。
以前にアストラル体を弟子が統御したとき、通常の人間は情緒の中から情緒を扱うが、弟子は情緒の外から情緒という物質形態を扱ったのを覚えているであろうか。言い換えると、魂でアストラル・フォースを統御したはずである。つまり、アストラル界はメンタル界から統御されたはずである。これと同じで、頭と呼ばれる低位メンタル界は、それよりも上の界層からしか統御できない。以上の文章で多くのことを伝えたはずである。もし理解するならば、「イニシエートが扱うのは常に質料である」という文章の意味が実践的に知られるであろう。その働きは人間の視点からすれば魔術的である。その魔術の応用を見せるならば、人はそれを奇跡と呼ぶであろう。しかし、奇跡はただオカルティズムの物質界での応用にすぎない。
何も分からない時期――自身を人間だと考えている時期に、物質界でキリストと面会したとしよう。彼の御業はことごとく奇跡だと思うだろう。彼が後に弟子やイニシエートになったとき、奇跡はあまり難しくないと考えるようになるであろう。そのくらい成長するであろう。そのとき彼にとって重要なことは、キリストがその象徴でしかない我々の神の目的と、目的のために発せられる計画を、神のマインドの中に入り、知り、まだ計画のごく一部しか見えず、また担えぬであろうが、実際に参画することである。神が目指すものと我々が目指すものが同じにならねばならない。流れ方は一致しなければならない。なぜなら、我々と神は「異ならない」からである。
頭は罠だ。頭という罠にかかるならば、何事も不可能になり、何事も難解になり、それが頭の中から取り組んでいるからということにも気づかぬであろう。頭から自由なときだけ、人は調和の意識を知る。頭からの自由を、我々は「マインドの超越」などの概念で語るが、大袈裟である。頭で語るゆえ、簡単なことを難しく言い表している。むしろ、難しいのは頭の中で生きることであることを知ってもらいたい。頭は、痛みを伴わない罠であるゆえ、罠に嵌っていることに気づきにくい。後に、自身が閉じ込められた霊魂であるという認識が成長したとき、頭やマインドの中に生きていることに懊悩するであろう。決して耐えられなくなるであろう。それゆえ、「私とは何か」とか、精神、心、マインド、想念、私といったものの正体と真正面から対峙することを迫られるようになる。外から内に向き直るのである。ここで、客観ではなく主観への集中が開始される。そして、このような集中は頭が静かになったときにしかできないことに気づくであろう。しかし、平均的な瞑想者は、頭でマインドを統御しようとしている。したがって、
瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとする。しかしながら、真の瞑想は魂とマインドに関するものである。脳の受動性はより高位の状態に対する自動的な反応である。したがって、魂との接触、そして「思考原理の変異を静める能力」が、あらゆる脳の活動や反応よりも先に起こらねばならないのである。
ジュワル・クール「魂の光」p.402
「より高位の状態」が瞑想では先に起こる。上の引用と本質的には同じ内容であるラマナ・マハルシの文章は以下である。
真我探究で起こることは、「私」という想念が消え去り、探究を始めた「私」ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである。
「あるがままに」p.102
マインドからすれば「別の何か」であるものが、真の私である。これを理解するときは、想念が静まり返り、「別の何か」によって統御されており、そこに調和が存在し、自身が「別の何か」に溶け込んだことを知るであろう。これが初期段階に起こる一体化である。人間はこのとき魂になる。この状態が観照であり、このとき、弟子は「強烈に生き生きとしており、鋭敏で、肯定的で、目覚めている。なぜなら、彼は脳とマインドをしっかりと掴んでおり、それらによるどのような妨害もなしにそれを用いることができるからである」。
たゆみのない長年の瞑想により、人体は神性の器へと変質する。それは単なる道具と化す。それまでの過程――長年の瞑想とは修行であろうか。大変なことであろうか。もしそう考えるならばあなたは次のことを理解しなければならない。マインドに生き、真我ではなく偽我に生きることが大変なことであると。見出す直前の弟子たちに極度の苦悩が訪れるのはそのためである。偽我に生きることに耐えられなくなる。まだ私を個人だと思っているが、私は私に耐えられないと思い始める。そしてどうにかしようとするが、何をしても失敗する。なぜなら、物質界の人間で出来るものではないことを彼は知らないからである。彼に必要な助けは、瞑想が存在するという事実を教えることである。もし彼が瞑想し、つまり明け渡し、自身を、元より存在する大いなる流れに委ねる技を習得するならば、その流れに揺蕩っているうちに、勝手にマインドは乗り越えられているであろう。ゆえにラマナは、「やがて集中が心地よいものになるだろう」と言ったのである。流れに身を任せ、神の流れに入ったまま、融合したままであるとき、我々はすべての人間的な制限から自由になり、そこではいかなる人間的な領域を知覚することもない。意識が肉体制限から自由になるのである。
「自由」とは、第三イニシエーションまでの目標でしかない。したがって、早急に達成すべきである。……昔、ジュワル・クールの本を読んでいたとき、観照は早急に達成すべきものでしかないと彼は言っていた。それを読んで、ひどく高度な要求をするなと思った。そんなことができるわけがないだろうと思った。実際は簡単なことだった。頭を放棄すればよかったのである。どのようにしてだろうか。魂に集中することによってである。人間としてマインドを超越しようとするのではなく、まず魂との接触を確立し、連結し、融合し、魂への集中が自然なものになり、またそれだけが心地よいものであり、それ以外は苦しいものになり、不調和ではなく調和に生きられるようになるとき、知らぬうちにマインドは超越されていたことを知るであろう。頭で生きていた時代には、イニシエートが達成することは自分には無理だと思うものだが、瞑想すなわち真我探求において深淵から別の何かが現れた後は、その真の自己において、後は簡単なことである。したがってラマナは、「それ移行は、その別の何かがあなたの面倒を見る」と言ったのである。
実際は、別の何か、つまり冷たい灼熱の太陽によって、自我という錯覚は焼き殺される。このようにして古い形態は焼かれ、燃やされ、灰となる。破壊神の御業により、我々は古い形態からこうして自由になるのである。このとき、我々は霊の強烈な至福に満たされるであろう。太陽に焼き殺された後、我々は生きながらにして天国を知るであろう。引き続き、人間体を通して物質界では生を全うするであろうが、人間にまつわるすべての厄介事からの影響から自由になるであろう。厄介事はカルマに応じてまだ起こるであろうが、厄介事による影響からは自由でいられる意識を与えられるだろう。これが真の守護であり、守護神である。したがって、我々は神にだけ頼っておればよい。なぜなら、例外なくすべての本質は神だからである。
