太陽ニ殺サレタ

注意深く生きている限り、注意深い意識を保持している限り、人間にはほとんど全ての問題に対処しうる能力がもともと備わっていることを発見するであろう。たとえば、私のかかりつけの医師は、神の意志である。生命エネルギーという意志である。このエネルギーを用いて、思うがまま、とはいえ神の法則に準じたまま、私は(つまり意志は)、あらゆる表層的な現象や事象の背後の原因に働きかけることで、外的に結実した問題をその内側から統御している。

病気に対する人間の反応は、病気が引き起こす苦痛を緩和しようという表面的な関心である。私なら病気そのものを見るだろう。病気が持つ流れや動きの構造を、無執着にただ見るであろう。見た瞬間、私は「病気」が統御されたことを知るであろう。病気の背後の乱れた気の流れを見た瞬間、苦痛はなくなり、不調和は調和に席を譲り、静かで美しく、また心地の良い魂の意識に戻り、肉体の病気による不穏な感覚知覚は消え去り、意識はふたたび肉体から切り離されて、大自然とも呼ぶべき霊と物質の調和意識に憩うであろう。通常の人間と異なる点、すなわち私がここで強調したい点は、表面的なものを無視し、その背後の原因を、魂を介した霊的意志によって調和に至らしめるという視点の違いと、そのような知識の有無にある。

この霊的物理学に習熟するにつれ、弟子は形態には全く興味を示さなくなるであろう。形態を「生き、動き、存在」させている主観的で本質的な原因にしか直接的な働きかけをしなくなるであろう。このとき、弟子と意志は同じものであるゆえ、いかなる問題や対象に対しても無関心のままでいられるはずである。いかなる抵抗もそこへ入る余地はないだろう。観照の態度は貫かれるであろう。乱れたものを調和へと引き戻す力は神の意志にそもそも内在するものである。神が働き、我々はそれを目撃する。

人間には途方もない力が秘められている。それは、人間が自身を人間ではないことを自覚した瞬間から解放される力である。人間とは、はっきり言うが、想念である。さらに言うと、想念の後、想念によって作り出された装置によって知覚される二次的な想念である。それらは表面的なイリュージョンでしかない。視覚や触覚などの感覚知覚によってのみ存在しているように見え感じられる影絵である。見かけの背後のリアリティーを理解したとき、形態は重要ではなくなる。形態を通して働いている力、様々な種類のフォースと、どのようなフォースであれ統御可能なエネルギーの世界が主な職務領域になる。この違いをはっきり弟子は理解しなければならない。

感覚知覚は、神性との連結の度合いに応じてではあるが、統御可能なものである。つまり人間意識や、人間の知覚領域からは自由になることが人間にはできる。それは、人間が魂に統御され、個人が魂に殺された後にのみ可能な話である。この殺人に恨み節が伴うことはない。古い歌にあるように、「太陽ニ殺サレタ サヨナラヲ言ウ前ニ」と言う者はもはや存在していない。実際、サヨナラを言う前に殺されるだろう。ラマナ・マハルシの母親は可哀想だったかもしれないが、人間が人間ではなくなるにあたって、別れを告げるといった感傷的なことは起こらない。探求を始めた者は死ぬが、それは夢から覚めるようなものであり、良いものである。人間の意識を可能にしている古い形態が破壊されるとき、意識は霊的太陽と一体であり、その殺人の正しさと美しさがまばゆい光の中で立証されるであろう。死化粧の分解に、耳のちぎれそうな悲哀で対応されても、太陽に殺された者は無関心のままであろう。「そんな 嘘だろう 真実だろう どうでもいいさ」と言うだろう。

瞑想は集中だと思われている。実際に集中を伴うであろうが、治療だと言い換える視点もある。霊の仕事は物質の霊化である。これが治療でなくして何と言うであろうか。霊化とは物質の引き上げによる霊との調和であり、これに伴う意識の拡大のことを我々は進化と呼んでいる。進化するのは意識であり、つまり拡大するのは意識である。したがってジュワル・クールが言うように、「科学者は宇宙が拡大していると言うが、実際に拡大しているのは意識である」。この意識拡大に応じて知的な啓明が起こり、視界が開ける。霊の仕事と我々の仕事は違うのだろうか。同じである。真我と霊は同義語である。霊的意志とは、霊化に向かっている。これを突き詰めると、惑星の物質や、そのような物質のカルマや、理解の及ばない途方もない善悪の起源にまで遡らねばならない。我々に理解できる当面の事情は、閉じ込められた霊と閉じ込める形態との終わることのない戦いを、我々の神が神自身の限定の打破のために利用しているという点である。

弟子は、最初に手を使って治療できることを発見するだろう。次に、手がいらなくなるだろう。意識と心象化だけで十分になるだろう。マインドを統御するときにこの理屈は応用可能である。霊的エネルギーは霊化に向かっているため、低位マインドを構成する低位の質料の霊化という観点――治療の観点から、ちょうど治療するときと同じように、今度はメンタル体の質料に直接働きかけるのである。想念を生み出すマインドの原理に意識とエネルギーを差し向けるのである。このように、理解した上での集中が存在する。何をしているのかを知った上で行われる集中である。この場合、当然ながら、自身が霊であり、魂は道具であり、道具を通して、対象への意識の集中を通して、神の意志が治療と霊化を行うことを実際に知っていなければならない。

そのとき、我々は何を恐れるであろうか。人間の問題は、恐れるものに対処しようとすることである。恐れ自体に対処するという発想が欠落している。結局のところ、統御すべきは自身のみである。魂によって個人が統御されるならば、恐怖からは自由である。夜が太陽に殺されるように、魂がその聖なる白光の中で個人を抹消せねばならない。このような殺人を神が望み、その結果を極楽ないしは天国と呼ぶことを、どうして人間の頭が思いつきうるであろうか。瞑想は天才である。頭では決して分からぬことを教える。医者や学校の教師は先生なのか。我々よりも先に生きている生命が先生である。真の先生からしか我々は真理を学べない。肉体の死や、サヨナラを言う前に、太陽に殺されなければならない。普通に生きている限り、このようなことは思いつきもしない。殺されることが新たな解放と新たな世界を可能にするとは思いもよらない。形態は常により大きな形態の部分なのである。となるならば、小さな形態の死は、あるいは犠牲は、より大きな形態のための大いなる奉仕であるに違いない。

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