分離に見る一体性

AとBという人間がいるとして、現象世界でこの二人は分離した肉体を持つ。つまり、分離した肉体に意識は閉じ込められており、その肉体を意識の中心として世界が眺められることになる。例えばAがBを殴るとき、痛いのはBであり、AはBの痛みを知覚しない。よって、AとBは別々の実体として意識の上で考えられ、互いを敵と見なす。

世界を構成する様々な物質や形態は分離している。それは距離や空間において分離しており、かつて死んだ者が今はいないように時間においても存在に分離がある。ここで言う存在とは、肉体や物質や形態のことである。また、それらの形態内に限定された意識のことである。

しかし、我々が瞑想するとき、意識において分離は打ち消される。世界は私に飲み込まれる。分離は意識に吸収される。主体と客体という対立は解消される。純粋な意識においては、一も多もなく、それらの現象は無効化される。このとき意識が知るのは実相のみである。この実相がいのちであり、真我であり、わたしである。

例えば人は苦痛を感じ、「私の苦しみ」と表現し、「私」と「苦痛」を分離して考える。このため、世界中の「私」たちが、各々の「苦しみ」から逃れようとしたり、苦痛を消しうる何かを手に入れようとしたりして、もがいている。Aに殴られたBの苦しみはAの存在であり、Aを屈服させ、その事実を周囲に知らしめ、おのが立場と評価を逆転させるまで、その苦しみはついて回ると考える。よってBの苦痛の対処法はAの打倒である。

Bは、自身の問題が「苦しみ自体」にあるにも関わらず、自身の問題をAという存在にすり替えた。しかし、CもまたAに殴られたが、CはAを許しており、むしろAの行為を憐れみ、Aを許してほしいと神に祈りさえした。Cは、Aの心の苦しみに比べれば、殴られた自分の痛みなど何でもないと考え、Aに殴られたという出来事はCにとっては愛の原因にしかならなかった。このように、Bの苦しみの原因とは、Aの存在でもAの行為でもAとの間の出来事でもなく、その受け止め方にあることは自明である。CはAを憐れみ、Aを愛することで癒したいとしか思わなかった。よって自分の苦痛はなかった。一方でBはAを憎み、Aより無力であった自分に懊悩し、そのことが許せず、自身の優位性を示すまではAは敵であり、また復讐の対象であり、それが果たされるまでは苦しむことになることを受け入れた。こうして、苦しみ自体は見られないままである。

事実を述べる。「私」と「苦痛」に分離はない。苦痛の解決法は世界にはない。苦痛自体を見ることのみが苦痛の解決法である。Aや出来事は関係ない。Cが苦痛を感じなかったように、Bには受け止め方に間違いがあり、その結果として苦痛を知覚しており、見るべきはその苦痛である。見るべきは苦痛が伝えんとしているメッセージである。このメッセージには、苦痛が生じることになった過程、何を間違ったがゆえに苦痛が知覚されねばならなかったのかが書いてあり、それらが一瞬で理解できるかたちで用意してある。この苦痛の中身を見ると、「私の苦痛」ではなく、私と苦痛は同一のものであったことが知られるだろう。つまり、「私」も「苦痛」も想念なのである。意識自体は、「私」や「苦痛」と関係していない。苦痛が敵ではなく私自身であるとき、言い換えれば、客体ではなく主体であるとき、分離の意識がないとき、喜び以外に何も存在していないことが明らかになるだろう。

このように、自身という小宇宙から形態間の分離を打ち消していかねばならない。外ではAとBという肉体の分離がある。内では私と苦痛という感覚知覚という分離がある。対象に入っていくべきである。客体を打ち負かすのではなく、客体から逃れるのではなく、客体を嫌悪するのでもなく、苦痛なら苦痛という客体へと融合しなければならない。これが「受け入れる」という意味である。これが抵抗ではなく調和である。このとき、一体化された意識において、苦痛は知覚したくても存在しておらず、在るのは無限の喜びと愛であることが意識において露わにされる。その中心に深く入りゆくならば、すべてのものの本質、あらゆる蓮華の中の宝珠、いのちが見えるであろう。いのちにおいて一体であることを、純粋な意識が知るのである。言い換えれば、魂が霊を、自我が真我を知るのである。

われわれは、外に顕現する形態のいのちと繋がる能力を秘めている。外周から中心へと至る経路が用意されている。よって、あらゆる客体に主体を感じ見て、愛と呼ばれる引きつけるエネルギーに抗わず、すべての客体と融合し、分離を無効化する必要がある。これは意識における分離の喪失であり、意識における一体性つまり愛と喜びへの解放である。この低位の様相が、男女の性交に見られ、低位の合一による快楽のことを世界では愛や悦びと呼んでいるが、動物性質は神性へと昇化されねばならない。性のエネルギーは仙骨センターの管轄下に通常はあるが、発達した人間において、それらのエネルギーは喉センターに引き上げられている。したがって、メカニズムとしては、秘教徒が教えるように、横隔膜より下のセンターつまりチャクラで平均的な人間の意識は生きており、それらが対応する横隔膜より上のセンターに引き上げられた人間は、大なり小なりの神性を意識しており、それらの使用が意識的に可能になっている。

このように、開花や意識の度合いが各々において異なるため、「見る」という一言においても、文章はかなり無力化され、ヒントにとどまる。しかし、誰しもがヒントから出口を見出すものである。絶対に覚えておくべきことがある。それは、常にわれわれは解決できる能力を持っているということである。他人に頼ると解決できなくなるが、自身で解決できぬ問題は存在ししない。一時的に解決できなくても、それは間違ったアプローチであることを教えているだけであり、すべては自身で見出し解決しうるものだという鉄則を神の名において覚えておくべきである。だから、私には無理だと思わせる誘惑に負けないようにし、その「私」が間違いであることを知り、「私の頭」を使うのではなく眉間を使い、眉間に座す魂つまり意識の中に入りゆき、すべての客体を我が内へと飲み込み、分離や恐怖心を打ち消し、愛と喜びにいま、至ってもらいたい。

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