常識をくつがえす

道の途中まで、「常識」が逸脱を防ぐ支えになる。その後、常識を疑うことが真理の開拓者の握る斧になる。そして、最後に真理じたいが常識を消散する。常識とは、マインドの常識であり、それが超越される頃にはただの錯覚である。

病院に行くと、たいがいは症状を病名に当てはめさせられる。しかし、瞑想で眉間に行くと、症状は存在していないことが光の中で明らかになる。前者は薬を飲んだり入院したりすることで治療を目指すが、後者は真理を照らし出す目によって即時に偽りを破壊する。空が曇っていようが、眉間の窓から眺められる世界は光だらけである。どれだけ暗い気持ちに沈んでいる人も、抵抗せずに眉間の神にいだかれるならば、喜びの中で我光なりと言うだろう。どれだけ罪を重ねた悪人であれ、恐れずに「わたしじしん」であるならば、この俺さえも許されているのかと言ってほほえみの中で涙を流すだろう。慈悲は無限である。愛は真理にして無限である。どれだけ人々が記憶に支配されて自身を名と形に限定しようが、瞑想するならば、それらは真理に抱擁され、愛に溶かされ静まり返る。

常識とは恐れの産物である。よって、決めたがる性質を持つ。納得することで人は安心する。結果がどうであれ、人は理解を好み、分からないことを恐れる。あなたは癌だと言われると、やっぱりそうですかと安心する。いつか癌になると思ってましたとさえ言う。こうして、ないものすら自身で作り上げる。恐れていたことが現実になる。

医者とは通常、迷った者たちである。もちろん、苦しい時には救ってくれる方々であり、本来は仁術であり良き職業である。しかし、医者の資格が試験に堕落したことで、多くの医者が傲岸不遜に陥った。自ら治療できもしないことを知っていながら、医師への道を金儲けやステータスの道具とみなし、先生と呼ばれることで優越感に逃げ込み、人より賢く偉いと信じることで恐れに対抗し、博愛なき無力な我を富や地位の威光で覆い隠しつつ、治療されるべきは己れであるというぐうの音も出ない事実を認めきれずにいる。なまじ自尊心が強く、臆病ゆえに反発し、身をあずけること、おのがすべてをゆだねること、これらの偉大さに怯えている。治療するのは誰なのか。免疫力とはいかなる力であり、何に由来する力なのか。病院に由来するのか。薬に由来するのか。手術に由来するのか。この答えに瞑想者は到達する。

肉体を支配するエネルギーは、意識の焦点が置かれている様相や諸様相の統合されたものから発せられる。したがって、意識の焦点が絶えず魂にあるときに、完全な健康がもたらされることになる。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道5 」p.429

例えば、過度の暴飲暴食は肉体を害する。その結果、肉体の不調や苦しみを感じることになる。しかし、感じるということは、感じる者と感じられる対象を前提としている。では肉体の不快感とは何なのか。それを感じている者や、感じるという知覚とは何なのか。医者に聞いたら病名をつけられて終わってしまう。見れなくなる。胃潰瘍ですと言われたらそれを信じてしまう。病名や命名は逃避である。概念や知識は逃避である。その不快感は本当なのか、なぜ誰も確かめないのだろうか。人は名誉を毀損されると訴訟すると言うが、なぜ不当な病名を言い渡されたとき、眉間の真なる最高裁に訴えないのだろうか。この事実を真に教えることができるならば、私は医学や薬学を悪用して巨万の富に埋ずもれている兄弟方から殺されるだろう。しかし、どうして肉体でない私を殺しうるだろうか。このような者たちを考える時、愛の洪水がなだれ込み、その者たちによりいっそうの愛が流されることを私は喜ぶ。私が患者と呼ばれる者を診させてもらうならば、眉間の窓から病いが直に見られたとき、ないことを教える。誰が信じるだろうか! しかし、そこにあったのは病気があるという想念だったのである。なぜなら、ひどい不快感や苦しみを知覚するゆえ、人は病いが存在するであろうと想像し確信せざるをえないのだが、本当に存在するのか疑い、自身で直に確かめられたとき、ないのである。一秒前まで苦しかったとしても、見たら苦しみも消えるのである。錯覚とはすべてこのような性質を持っている。

黒澤明の「どん底」で、「阿弥陀なんてものはいるのか」と三船が問う。左卜全は、「いてほしい人にはいるだろうさ」と言って笑う。錯覚とはこのようなものである。それは想念であり、マインドが映写した幻であり、体験可能な非実在である。人々が在ると思っているものはない。瞑想とは魂への集中である。眉間から愛の泉、あふれる光に溶け込むことである。なんと言葉の陳腐なことか。偉大さは伝えられない。しかし眉間がそれを伝えるだろう。各々が、内在の至福の主、この愛であるお方、唯一なるいのちであるお方、この名づけえぬお方の視力に入りゆき、「マインドをしっかりと光の中に保つ」とき、常識はただの無知へと枯れ果て、役目を終えて、真理へ席を譲る。わたしは病気ではなく、わたしは病人ではなく、わたしはいのちです。すべてはひかりであり、ひかりはいのちであり、わたしはいのちです。聖書ではキリストが病人を癒やしたと書いてある。ジュワル・クール覚者は、イニシエートは自動的に治療すると言っている。イニシエートとは何なのか。いのちだけが唯一のイニシエートである。したがって、誰の内にも、どの形態の内部にも、それはすでに内在している。この認識を阻んでいるのが常識である。

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