舞台から降りる知恵

苦痛を見ようとしていますが、あなたが言うようなことは私には起きません。むしろ、より苦しくなると感じました。苦痛の感覚は何かの間違いだとあなたは言いますが、私にはその意味が分からず苦しいままです。

咲き誇る花を見て「美しい」と人は言う。そのとき人は、努力なしに花を見たはずである。しかし、あなたは見るために努力している。視覚は努力ではない。

苦痛を見ようとすることがすでに努力になるなら、何も私にはできないことになりませんか。

あなたが苦痛なのである。あなたと苦痛は同じであり、この場合、あなたは見られる客体である。本来、苦痛というものはないのに、あなたが苦痛を主張しているのであり、したがって苦痛を癒すのはあなたではなく、癒やされるのがあなたである。このことが理解できないとき、あなたは自分が主体であると考えるため、同一のものである「あなた」と「苦痛」が衝突し合うのである。これがフォース同士の衝突である。よって、苦痛はさらにひどいものとなる。あなたは癒し手ではなく、癒やされる客体であることを知り、全く何もできないし、する必要もないことを知って、楽になるべきである。

自分で苦痛を見ることができないなら、あなたの「見る」という言葉は私には当てはまらないということになりますか。つまり、ほとんどの人に当てはまらないということではないでしょうか。

自我が霊的に何もできず無力であることをあなたは知らなかったのだろうか。もちろん知っていたはずである。にもかかわらず、なぜあなたは自我で何かをしようとしたのだろうか。これについて考えるならば、大いなる知恵に導かれるだろう。

真我のみが実在である。偽我である自我は錯覚として見られる対象であり、あなたは真我において偽りの客体でしかない。純粋な視力は自我の背後にあるが、この背後の眼があなたの意識そのものになるまでは、自我たちはおのれの無力を学習することができるだけであり、それによって強烈な自我の絶望感――私には何もできないのだ、という事実に直面することで喜びに至ることが可能になるだろう。なぜなら、自我が静まり返るとき、彼は真我だからである。これがいわゆる明け渡しである。

自我である私には何もできません。これは絶望かもしれませんが、この絶望感はリアルであり、全く喜びに導くものではないように思います。

それは、自我が何もできないことを本当には理解しておらず、何かできるはずだと、まだ抵抗しているからである。世の中で、あなたは子供の頃から努力を教えられてきた。つまり、自我を育てられてきた。しかし、霊的な教えは真我を育てるものである。よって、自我としての努力は少しの必要もなく、むしろ自我の努力は妨害する要因でしかない。自我で努力をすることは抵抗であり、おのれを知らないことによる無知のあらわれであり、したがって行為や行為者の責任感覚はすべて苦痛である。難しく考えず、ただ静かにしていてほしい。あなたを苦しめているのはあなたの想念である。

あなたは静かにしていることで内在の真理に至ったのでしょうか。

そのような想念の背後には、至るためのノウハウやヒントを得たいという動機がある。この時点で遠くへ彷徨ったことを知るべきである。どのような想念が生じても、私なら意識自体に引き戻し、わたしじしんとして、ただ静かに在ることで満足するだろう。

そのような満足感がなく、苦しみしかなくても、静かにしているべきでしょうか。

違う。この場合、静かにすることで苦痛から逃れようという動機にあなたは動かされているため、逃避もしくは抵抗することで余計に苦痛を強めることになる。苦痛で良いということをあなたは知らないのだろうか。抵抗ではなく、受け入れるということは、苦痛で良いということを知ることである。これが驚くべき知恵である。

あなたは自身と苦痛を分離して見ているゆえに互いに衝突し合っている。わたしが苦痛であることを知るならば、どうして同一のものが同一同士の相互作用で同一自体を変性しうるだろうか。あなたは癒やされる客体であることを知り、自我は真我によってのみ治療されうることを知り、自由で楽になってもらいたい。何かをしろと言うのは人生だけであり、霊的な真理は決してあなたに何かをしろとは言わない。あなたという独立した単位などないからである。これを知ることが一なる喜びである。

思うに、自我は、何かをしようと絶え間なく画策しています。この、自我が何かをしようとする動きに対し、自我である私は何もできず、よって自我として何かをしてしまうのです。

そのどこが問題なのだろうか。そういう性質に気づいたならば、再び静けさに休憩すべきである。普通の人は、気づくことがないため、ずっと自我として行為し、真我に安らぐ暇がないのである。自我の動きや画策に気づいたなら、そういうものだということを知り、無視して、ただ静けさを楽しむべきである。

それは簡単なようで、ひどく難しいことに思われます。

そう思ったり、思うことで何らかの感情を呼び起こしたりされる自我の循環に決して巻き込まれないことが大切である。いちいち、あなたは想念や感情と同一化する癖がある。瞑想を続けるならば、あなたは内なる者に導かれるようになり、彼において、何とも関係ないという感覚に安らぎはじめるだろう。どのような想念や情緒とも、全く自分は関係がないのだという感覚により、絶えず自由になるだろう。こうしてすべては簡単になる。同一化はなくなる。だからしばらくの辛抱である。

辛抱が報われるという希望や確信は信仰や信念によるものでしょうか。もし瞑想を続けて……

黙ってもらえないだろうか。想念と感情の循環を断ち切ってもらいたい。私があなたを見るとき、真我の上で想念と情緒が架空の劇を繰り広げているだけであり、あなたの意識はその劇を追いかけている。こうして人生は舞台となるが、しかし舞台から降りることが瞑想である。それは自我の演劇の拒否であり、自我という役者のファンや追っかけの熱から冷めることである。

指針を一つください。混乱しています。要は静かにすることから始めれば無難でしょうか。

という想念に気づくことである。という情緒に気づくことである。我々に出来ることは、ただ気づいていることのみである。

なんだか苦しくなってきました。

チャンス到来である。大きな苦痛はより見やすい。花を見て美しいと言うように、純粋にただ見ることである。本当に苦しみなどあるのだろうか。自作自演ではないのだろうか。私が苦痛であり、私と苦痛が同じであることを認識できるならば、もはや何もする必要がなく、その瞬間にすでに衝突がないゆえ苦痛もなくなってはいないだろうか。正念場である。激しい苦痛のときは、見出すための大きなチャンスである。掴んでほしい。やがて苦痛が来るたび、あなたは喜ぶようになるだろう。なぜなら、その感覚を入口にして解放意識に入るすべを覚えるからである。苦痛とは神の特別な贈り物である。

目次