吸う息、吐く息

一つの生命がある。これはエネルギーである。これは偏在にして実在である。これは不可分であり、どのような形態の背後にも存在し、生命なくしていかなる表現体も存在しえない。個人という錯覚つまり想念ではなく、普遍的な生命の流れに融合することが人間の瞑想である。通常の人間は、与えられた命、与えられたエネルギーを、彼や彼女といった条件づけられた表現体を通して誤用し続けている。流入するのは普遍エネルギーだが、流出するのは個人に色づけられた分離のフォースである。個人が純粋ならば、流出するフォースは個人の表現ではなく、神のエネルギー表現である。媒介装置である人間から個人性が取り除かれることで、エネルギーの流れは純粋さを維持できる。個人意識は、この普遍エネルギーに融合し、没し去り、生命だけが残る。

人は息をする。吸う息は、誰においても同じ一つのエネルギーである。吸気は偏在にして不可分であり、選り好みを知らず、それが誰であろうが平等に命を与える。それは空気と呼ばれるが、全く空ではない。人間には見えないから空と呼ばれているだけである。それは生命エネルギーであり偏在する神である。一方、吐く息はどうなのか。もはや人間の体を通り、吸気とは全く異なる色彩や香りや振動を帯びている。我欲や情念といった汚染された排気ガスになっている。流入する吸気はエネルギー、しかし流出する呼気はフォースである。

人間の想念、言葉、行為もまた、その個人に色づけられたフォースの表現結果である。どれも条件づけられている。これが分からない場合、人は自分や自由意志という発想に耽溺する。生きているのは生命ではなく、自分になる。真我は意識内にて無効化される。自我は、条件づけられた生命の誤表現でしかない。瞑想が、この事実を教えるだろう。エネルギーとフォースの違いを教え、どのような条件づけるフォースも、エネルギーによって抱擁され、愛を与えられ、フォース自体の無知を克服することで、エネルギーに溶け合うようになるだろう。この過程に我々は統御という言葉を当てている。これが純粋さの始まりである。最初に純粋(つまりエネルギー)を知らねばならない。次に、不純を純粋によって識別し、浄化しなければならない。これを意図的にできるようになることが、初期段階の瞑想の目標である。

諸体のフォースに動かされるとき、つまり条件づけられるとき、人は自我意識を持ち、自分が行為する者という想念を抱え込む。これが一切の苦悩の原因である。ならば、条件づけるフォースを我々は知る必要がある。それは自分である。その自分をわかりやすく区分けするなら三重である。

  1. 低位メンタル体つまり具体マインドを通過したフォースは我々においては想念として表現される。
  2. アストラル体を通過したフォースは我々においては情緒や欲求として表現される。
  3. 肉体に、思い・言葉・行為という特定の表現をさせるのは1と2のフォースである。

この過程に無知なとき、人は単に自動装置であり、真我は無効化され、人間意識においては眠っているか死んでいるようなものである。先ほど、「フォース自体の無知を克服することで」と書いた。エネルギーつまり霊・生命は、長きに渡り人間過程を通して、個別化された魂を用い、また世界や輪廻や人生経験を通し、物質のあがない、つまり物質を動かす質料(これがフォースである)に関わってきた。初期段階において、物質人間は経験を積むために、諸体におけるグナの比率は、タマス(惰性)を打ち破るためにラジャス(活動性)が優勢にされる。騒がしい自我が意図される。このようにして、自我は世界という舞台で自身を輝かせようとするが、この分離した生き方によって衝突と不幸が生じていることをいずれは理解し、自身を克服しようと考えるまでになる。瞑想や正しい表現生活を通してラジャスとタマスを諸体の物質から除去するとき、静けさに反応できるようになり、静けさを好むようになる。物質においてはサットヴァ(調和)が優勢になるのである。低位亜界の物質は浄化され除去されるようになり、これに応じて人間の意識も変容する。意識は、霊・生命が、どのような物質と結びついているかに依存している。諸体の物質それ自体は死体だが、我々の惑星におけるどのような物質も、霊・生命の本質的な表現ではない質料、いわば事前に色づけられたフォース・質料によって形成され動かされており、それらが霊つまり純粋な生命エネルギーに従おうとするとき、人間体においては漠然と瞑想が始められ、後に知的になり、魂の位置から物質の質料に働きかけるまでになる。このようにして低位の波動は高位の波動に置き換えられ、フォース体である人間の無知は霊という唯一なるエネルギーによって克服される。いわば合一し、存在するのは生命だけであることが明らかになる。

瞑想過程、そして瞑想が染み込んだ生活と人生の過程、これらは、霊と物質(正確には質料)の世界の話として考えられねばならない。言い換えれば、エネルギーとフォースの世界である。人間の意識つまり魂は、低位亜界のフォースに反応するのではなく、高位亜界のフォースに感応できるようにならねばならない。人間意識を生み出す低位物質ではなく、高位物質を諸体に組み込む必要がある。そうすることで、高位のエネルギーの意識的な伝導体になり、神聖なものと非神聖なものの識別が可能になる。

普通の自我は、人間というフォース体のなかで騒いでいるだけである。彼が瞑想しても、彼は低位物質のフォースに使用されているだけである。つまり、彼は何も分からない状態で瞑想を開始し、個人的な利益を得るため、個人的な不都合から逃れるために、瞑想を続けることになる。必然的に、概念や観念で前進を理解するしかなく、正しさや善を理想とし、悪徳を美徳に、悪行を善行に変えようと努力することで、波動的に少し成長する。なぜなら、正しいことを考えるということは、その正しさというエネルギーを呼び込むということだからである。そのため、可能なかぎり、愛や思いやりや優しさや分かち合いといった神聖な思いで自身を満たし、必要なこと以外は語らず、行為においては無害を表現する必要があるのである。やがて、このような性格構築と自己改善の時期は克服される。なぜなら、意識において、高位のエネルギーが知覚されるまでになるからである。ここから、いわゆる進歩が加速するようになる。何万回かは分からないが、人それぞれ、輪廻の歩みはそれまで遅々たるものであり、非常に勾配の緩やかな進歩しか提供することのない人生経験の繰り返しだったが、突然、急勾配になる。したがって、初期段階は惨めなまでに苦痛なのである。何も分からないのに急勾配を歩み、進むほど崖になり、登攀せねばならなくなり、しばしば滑落しながら、なおも諦めることなく、負傷し血を流しながらも高所を目指さねばならない。やがて光の糸が降りてきて、自動的に引き上げられる。なんだ、こんなことだったのかと言う。すべては錯覚であり、視点の違いであったことが融合によって理解される。そのため、さらに進歩は加速度的になり、人間意識から自由になる。自我意識の時代に関わっていた一切のものと関係性を失う。執着と同一化は去り、無秩序は秩序に置き換えられ、吸う息と吐く息は調和する。

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