自己改善

誰が自分を変えうるのか

自分を変えようとしている人は多い。世の中では、自分を変えうるのは自分だけであると信じられているし、絶えず自分を変えるように周囲から圧力を受ける。言い換えれば、偽我で偽我を変えうると信じられている。偽我は、いわば真我を知ることで変容しうるものであるという知識は、人類において広まっていない。偽我は結果である。私たちは、偽我という結果の原因を知らない限り、結果をいくら表向きに変えようとしても、無理だということを知る必要がある。

結果で結果を扱う愚

例えば、傲慢な人が、謙虚になろうと努力する。まず、彼の傲慢さはこの世で表現されている結果である。次に、謙虚になろうとしている人は、いま傲慢なその人である。この傲慢な人が、謙虚さという言葉で表現される状態へと、自身を置き換えようと日常で努めるとき、その思い描く謙虚さという想念もまた結果であり、謙虚であろうと彼を努力へ動かすそのフォースもまた結果なのである。彼を通る前の純粋なエネルギーは、いわば謙虚である。彼という諸体をその純粋なエネルギーが通ったあと、それは彼つまり諸体に条件づけられ、傲慢な言動という表現をさせるフォースへ変換されたのである。これは、フォースでフォースを扱おうという無知であり、それは抑圧であり、決して変性へと導かない。

瞑想は原因を扱う

瞑想でも、一般的には同じことが行われている。つまり、瞑想が行為になっている。行為が止んだ状態が瞑想状態であることが、しばしば忘れられている。何かになろうとすること、何かを経験したいと欲望すること、何かを知りたいと願うこと、何かを達成しようとすること、いずれも行為である。それらの行為が生じるのは、自身という諸体に条件づけられた結果である。つまるところ、私たちは全的に結果なのである。この結果を変性させたり、変容させたりするのは、私たちを通ったあとの結果フォースではなく、通る前の原因エネルギーである。人間の魂が、前者のフォースと同一化するとき、私たちのような動物的な人間になり、後者の純粋なエネルギーに振動を合わせるとき、私たちは神聖な人間になり、相応の意識の変容を知るのである。この単純さ、シンプルさが、ほとんど奥義である。

結果でも原因でもない

私たちが悟りと呼ぶものは、結果の世界にない。平均的な瞑想者は、原因の世界を知らないため、結果の世界で獲得を目指し、達成へともがき苦しんでいる。しかし悟りは、原因の世界にもない。原因や結果の背後の、存在の世界を指しているものと理解すべきだろう。つまり、私たち魂は、原因を扱うことで結果を変性し、生命へと至るのである。言い換えれば、人間は自身が魂であることを知り、次に魂として人間を扱い、変性し、存在へと生命の移行が完了し、変容するのである。したがって偉大な存在は次のように言っている。「行わなければならない仕事があるというグラマーからではなく、敏感に感応するという問題に専心しなさい」と。つまり、行為ではなく、行為や結果を引き起こす原因に感応できるようにまずなりなさいという意味である。

私たちは漠然に自分と言うが、それは一般的には自我だが、本質的には魂である。それは現象面つまり結果の世界に影響を受けて惑わされ、催眠を受けた状態にある人間の魂である。それは純粋ではない意識である。したがって、不純を取り除くことが仕事であり、瞑想である。ラージャ・ヨガは簡潔に言っている。不純とはラジャスとタマスの増大であると。自身という物質の不純を除去するのは、純粋エネルギーである。このエネルギーに感応できるようになり、諸体を精製することでこのエネルギーを増大させ、扱えるようになり、結果つまりフォースに働きかける術を習得し(それは行為ではなく高位である)、不純から自由な意識に融合しなければならない。これが、結果でも原因でもないものを啓示するだろう。

生命へ

私たちが原因を知るならどうなるだろうか。結果に興味はなくなる。生の焦点は、結果や運命や出来事や現象の世界ではなく、それらを生み出す原因となるものへと移行する。そのため、結果は関係なくなるのである。結実したもの、凝結したものに興味を抱いたり、好き嫌いや不平不満を言っても、何の意味もないのである。まずは自身において、人間という結果側面ではなく、その原因に感応できるようになる必要がある。それは正しい瞑想が徐々に低位我に教えるものである。私たちは、徐々に結果と原因を識別するようになるだろう。結果は、原因の世界から統御されるようになるのである。したがって、結果つまりこの世から徐々に影響を受けなくなる。このようにしてのみ、自己は改善され、生命へと導かれうるのである。死体になくて、私たちにあるものは何なのか。この本質を知ることが可能になるのである。

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