魂の闇夜

Ⅰ 闇夜

個人つまり低位我が高位我という概念に興味を持っても、それと接触できるようになるまでは、単に闇である。それは、ほとんど当たり前であり、例外なく誰しも経験するものであり、その誰もが自分ほど苦しい者はいないという確信にさえ至る悲惨な時期である。この時期の特徴として、苦しみのあまり、性急に効果を求めるというものがある。これが苦痛に拍車をかける。彼は、分離した個我と自我の感覚により、自分を世の中において中心ないしは主人公であると見なしている。この態度は苦痛を悪化させるだけである。この時期は、完全に見えなくなる。見えないが、見えることを願う時期である。しかし、生は順調でない。むしろ、何であれ上手くいかない状況や出来事が生じるだろうし、どん底を経験し、生きるか死ぬかというところまで、しばしば追い込まれるだろう。彼は見えず、分からず、失望し、傷ついている。魂の闇夜を経験中である者において、自分に夜明けは訪れないと感じられる。なぜなら、彼は全てから見捨てられているからである。彼の生は、孤独と絶望が支配する。

Ⅱ 抵抗

苦しみは低位我が逆らうときに訪れるものである。したがって、低位我を統御し、欲求を排除することによって、あらゆるものが喜びになるのである。

アリス・ベイリー「イニシエーション 」p.112

低位我を統御するのは高位我つまり魂である。したがって、魂と接触し、融合を促進し、魂意識を発達させるまで、生は魂の闇夜である。なぜなら彼は、低位我を、低位我で統御しようとするため、失敗がいわば宿命づけられているからである。これは教訓のためのものでしかない。私を統御するのは私ではないという教訓である。それは抵抗でしかない。子供のように、低位我は反抗し、自身の希望や求めるものを優先することで、霊的な欲求に溺れ、生そのものの流れに逆らい、苦痛という感覚を刈り取ることで、その態度が間違いであることを学ぶことになる。このように、低位我は、自身が霊的な領域において非力であることを理解する必要がある。彼は低位我で瞑想するだろうが、初期段階において、それはただの抵抗である。それでも瞑想は、彼には理解できない間に、彼を着実に成長させるのである。なぜなら、瞑想する者に、魂は注目を向け始めるからである。自身の願いをよくばらず、ただ静かに、日々に瞑想を重ねるならば、やがて魂と接触できるようになるだろう。そして、彼は魂として、突如として喜びに満たされるのである。

Ⅲ 涙

熱が激しくなる。そして、苦しむ能力が失われる。この段階を越えたとき、太陽が遮られることなく光り輝き、真理の明るい光が差し込む。これは秘められた中心へと戻る道である。

ホワイトマジック 下」 p.54

魂の闇夜を照らす光は、知恵である。彼は魂の知恵によって、低位我を多少なりとも超越する能力を発見する。そのような高所の意識を内に発見する。この時期の特徴は、冷静さである。彼は、苦痛も快楽も、ともに関心を持たなくなる。それは彼から去ったのである。それらは低位我のものであり、いまや高位我としてその意識にとどまることが容易になり、彼は苦しみや快楽から自由になる。彼がどれだけ苦しんでいたとしても、そのような記憶に興味はなくなる。それは錯覚の一言で片づけられる。無知の産物として、自身が苦しんでいたことすら忘れ、かつて現実とみなされた世界で仮に不幸が訪れようが、心理的に苦しむということはできなくなる。なぜなら、不幸が生じるのは個人に対してであり、魂に対してではないからである。彼は魂として世界を観照するが、彼は低位我や世界(それは同義語である)から自由なままである。

この種の超越は、段階の低いものである。誠実な多くの者にとって、確実に手の届くものである。ただし、魂の闇夜と呼ばれる時期において、自分にはおそらく届かない境地だろうと彼は感じるし、そう考える。なぜならこの時期、低位我はすべての自信を喪失しているからである。それは、喪失しなければならないからだということを、彼は忘れている。低位我に力が残っていると、内なる太陽が昇らないのである。外なる輝き、つまり個人は惨めに打ちのめされねばならない。この意味を知り、それが霊的に有効な作用であることを知って、あまり大げさにならないことである。自身の悲惨な環境を、あまり気にしないことである。そのような演出は起こる。そして実際、完全に落ち込む。自分は二度と抜け出せないのだと感じる。昔、ある幼い弟子が苦しみのあまり涙にくれていた。すると誰かが言った。「本当に苦しいとき、涙なんか出ない」。

太陽

低位我は、瞑想を通して内なる太陽を知る。この内なる太陽によって、低位我とその世界は打ち消される。生は苦痛から喜びに変わる。そして自身を生かす命が愛であることに驚く。同時に、この愛が分離を無効化し、人に命の一体性を啓示させる。もはや、彼は低位我から影響を受けることはない。それは、世界や三界から影響を受けないことを同時に意味している。彼を支配した闇夜は、知恵を通して太陽を啓示し、その王国、人類にはあまり知られていない天の住民の資格を彼に与える。彼はいまや天国にして天使であり、こうしてすべてが天使になる。

このような話は、単に事実を述べたものである。もしそれが希望となるならば、人は希望を見て、いつまでも目の前の実在と疎遠になるだろう。この過程は、時空間の意識に縛られた個我の想念意識においては、時間がかかるだろうが、それは現在においてすでに存在している事実である。ならば、なにが知覚を阻害しているのだろうか。それは、自分でしかない。自分とは何なのか。この身をつらぬくような問いは、瞑想であり内観である。しかし、自分はここにいるではないだろうか。それは見つけるものではない。魂の闇夜の時期、これは理屈にとどまり、見えないことを経験する。自分は見えない。苦悩や悲嘆に惑わされるばかりである。

この場合、効果のある言葉は、諦念である。彼は、低位我としての自分に関し、何もかもを諦める必要がある。もちろん、霊的な希望をもである。これは信じられないかもしれない。なぜなら、彼はまだ、想念や欲求と、実在を識別できないからである。彼において、非実在と実在は逆転状態にある。しかし、霊的な希望ですらただの欲求や恐れの産物であることが知られ、確認され、阻害するものとして認定され、希望に生きるのではなく、この現実、現在、ありのままのわたし自身が答えであることがやがて理解され、ここで重荷は脱落する。行為や努力は止む。希望は不要になる。彼は、光に包まれて、天使のように軽くなり、何もしなくてよかったことを理解するし、何もしないでよくなる。低位我の使命は終わったのである。経験や意識は高位我に受け継がれる。そして彼は言うだろう。太陽は神だったと。

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