目の前の現在

昨日の瞑想と今日の瞑想は同じだろうか。朝と夜とで意識に違いはあるだろうか。良いことがあった日と悪いことがあった日で、精神状態に違いはあるだろうか。つまり、絶え間なく現在は異なる精神下にあるという現実を、我々は瞑想に適用しているだろうか。それとも、刻々と変化する目の前の生きた現実を見ず、特定の瞑想法を信じ、つまりその瞑想法がもたらすであろう結果を求めることで理想を見、霊的な欲望に動かされて結果を欲しがり、死物と呼ぶべき”方法”なるものを、刻々の変化を表現する自身に対してただただ適用する日々であろうか。生きている現在に死物を適用できず、昨日はできたはずの瞑想が今日はできないと言っているのではあるまいか。過去に達成された意識の記憶と比べてはおるまいか。未来に達成されると思われる希望的観測を見ることで現在をないがしろにしてはいまいか。瞑想ができないと嘆く自分とは、何を期待し、何を求め、何によって瞑想ができないと判じるのであろうか。彼は、瞑想しているのが魂であり、外的な自我ではないことを忘れている。結果と原因を識別することを忘れ、現象世界のフォースに自身というフォースを適用しようとすることで、結果で結果を扱い、失敗していることを忘れている。実在は永遠に現在であることを忘れ、過去や未来や時間に生きている。我々は情緒や想念を見ているのである。

ある者が沈鬱な表情を浮かべていた。いつもの快活さはなく、虚ろな眼差しで、殻に閉じこもり、人と交わろうとする積極性が見られない。「何か嫌なことでもあったのか」。そうではないと言う。この頃、何もかもが上手くいかず、瞑想もできない状態にあると言う。「それでどうしたいのか」。すぐに答えられない。どうしたいというか……、そう言いつつ、自身の中の言いようのない感情が力を増し、制御できない域にまで到達し、何もかもが分からない、辛くて、もう全部やめてしまいたいと言って涙をこぼし、自作自演を始めている。つまり、知性が機能しておらず、その原因は、気分つまりアストラル・フォースに支配されているためである。彼はアストラル界の犠牲者であり、この界層に特有の「霧と靄」で、現在を見ることができないのである。

このような精神は、簡単に治療できる。病名は無知であり、治療薬は魂の光である。抽象的な言葉を使うことで読んでいる人を煙に巻くつもりはない。可能なかぎり具体的にしたい。

突発的に瞑想を止めることはあるだろうか。ああもう駄目だ、などと言って。我々の治療薬はこのような精神に提案したい。瞑想を止める直前に見た映像は何か。どのような想念を見ていたか。それによってどういう感情や気分に支配されることになったのか。ここに、喜ばしき秘密が隠されていることを我々は知るのである。遡って考えてみて、瞑想中に、無意識にその日に起きた嫌な出来事を思い返しており、その想念を見ていたとしよう。特に、誰かの顔や、誰かの言葉が自身を激しく振動させたかもしれない。その過程を知るだけでいい。私は誰々の顔、誰々の言動を思い出し、瞑想を中断せざるをえないまでに振動させられたと知るだけでいい。つまり、そこが弱点である。この弱点を無視したまま、低級な波動に動かされた状態で瞑想を止めて自我へ帰るべきではない。暴走する彼は、つまり彼を動かす波動は、好ましからざる原因を未来に種まくだろう。我々は、弱点を頭で考えてはならない。結果で結果を扱ってはならない。

一昨日の記事で、「魂のエネルギーが現象世界のフォースを支配する」という話をした。瞑想を止めるきっかけになった振動、その状態、その感覚を、現象世界のフォースに支配された犠牲者の状態であると考えてもらいたい。それを自我という結果の人間でどうこうしようとするなら、フォースでフォースを扱おうとしていることになり、対象のフォースはむしろ強化される。手に負えなくなる。それは抵抗になる。対象から目を背けること、嫌な状態から良い状態へ移行や逃避を希求していることになる。我々の治療薬は、そのような動きに惑わされないだろう。「魂のサーチライト」という表現がある。魂で見るなら、つまり魂のエネルギーを現象世界のフォースに適用するなら、我々を盲目にさせた闇や対象は、照らされて、知恵や答えをありのままに光が解き明かし、また即時に我々を永遠なる現在へと引き戻し、我即喜びなり、我即愛なり、と言わざるをえない至福そのものの輝ける意識を啓示するのである。それは明らかに時間から自由な現在である。何も求めず、何からも逃れようとせず、ただ目の前の現在、目の前のリアリティーに対する無知の不在が啓示する、存在そのものに由来する至福である。ここで弟子は知る。答えが常に目の前にあったことを。そして、刻々と目の前に今もあることを。

瞑想は内観であり、内観は、ただ見ることである。どうこうしようとすることは、内観ではない。感情であれ想念であれ、動いているもの、もしくは動かそうとしてくる力つまりフォースを、内観はただ見る。なぜなら、見るのは魂だからである。自我は、動に関わっている。魂や内観は、不動に関わっている。不動が、どうして動に騙されうるだろうか。霊的に目の据わった者は、絶え間なく変化する現在を扱い、変化という錯覚を目で貫き通す。答えが、現在ないしは目の前にあることを知らず、頭の中で、他人の考えた瞑想方法を、絶えず変化する生きた自身へ適用しようともがき、何年も何十年も、結果で結果をどうにかしようして苦しんでいる者の無知を、我々は砕く必要がある。インドやヒマラヤにグルや教師を求めゆくのではなく、この目の前に、数日前の記事で使用した比喩を用いるならば、不動明王がおられることを我々は知るではないだろうか。あの怒れる形相は無知の産物だが、この方が力であることには違いない。この方の方法はしばしば力づくであることにも違いはない。彼はパワーである。しかし、同じくらい愛であることが忘れられている。同じくらいに慈悲であることが忘れられている。怒るのは人間だけである。喜怒哀楽に動かされるのは人間だけである。神は、仏は、真我は、動きようがない。なぜなら、それは絶対だからである。

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