関われば困難、関わらなければ簡単

簡単なことも、人間意識には難しくなる。なぜなら、簡単だと人間には不都合だからである。つまり、「自分」がなくなってしまう。それは困るから、自身に隠れて自身に嘘をつき、自作自演に気づかないふりを体験し続け、物質の誘惑にあえて溺れることで、本物を忘れていたいのである。

魂は、自分という分離した感覚から自由である。この自分があるとき、人は現象世界の住人になり、延々と続く錯覚の犠牲状態に陥り、ありもしない重荷を背負って苦しむ壮大な自作自演が展開される。世界は自作自演である。魂が、三界のフォースに惑わされることなく、孤立してメンタル界の高位亜界にとどまることができるようになるとき、それまで人間という想念と同一化していた人間魂は、一つの魂に吸収される。一つと言いはするが、それは単なる文章表現であり、実際の感覚ではない。一つの意識に吸収されるとき、一つであるという想念はない。一つとか二つとか、あれとかこれとか、自分とか他人とか、どれも思考でしかない。思考がないなら、ただ唯一なる存在に溶け込むのである。こっちが本当の自分なのだが、自分という感覚もまた存在しない。それもまた思考だからである。説明するとき、一つとか、唯一なるとか、普遍的なとか、低位マインドに限定された人間意識にイメージできるような翻訳をするだけであって、実際はあらゆる個人における既知のものを超えている。しかし、それは何ら大げさなものでも神秘的なものでもなく、唯一自然な状態である。それ以外は、不自然であり苦痛である。

到達方法はある。しかし、自我においてはない。自我とは解釈であり、想念である。換言すれば、思考している人間存在という解釈をしているのは思考である。私とは、マインドの解釈である。マインドが魂に統御されているとき、どうして私があるだろうか。だから、人間の感覚であるところの私から到達しようとすると失敗することを知らねばならない。それまで魂が、私とか、私のものなどと思っていた、それらすべてを信じてはならない。このようなヒントさえ、到達手段である瞑想に持ち込んではならない。瞑想とは実践である。実践に想念を持ち込んではならない。想念は統御される側でしかない。想念を見てはならない。

到達する魂は、到達前から到達することを知っているものである。それは確信や信念のような情緒的なものではなく、単に知っている。なぜなら、かなりの割合融合しているからである。彼は魂と融合した人間として知っている。人間が魂と融合するならば、人間は一時的に消える。そこで、何が正しいかを知るのである。また何が間違っていたがゆえに、人間意識が維持されていたかを知るのである。魂は、メンタル界の高位亜界にいわば存在し、それ以下つまり低位メンタル界、アストラル界、物質界という三界からは完全に自由であり孤立している。つまり、関係していない。人間は、関係しているから人間意識を維持している。同一化という言葉でも同じことである。関わったり、所有したり、所有したものにしがみついたり、夢想したりしているとき、魂は人間を味わう。世界の中の住人に成り下がる。”堕落した天使”になる。そして、自身が魂であるにもかかわらず、何もかも分からなくなり、物質の暗黒に飲み込まれ、自分や他人が存在する世界という演出ないしは自己投影のなかで、私という画面の利己主義を通し、過ちを苦悩で学び、経験を積み、意識を発達させ、どうも自分は人間ではなく、それ以上の何かであり、自分を超越しなければならないという漠然としたアイディアに反応するようになる。そして瞑想などが始められるが、長い間、魂は人間として瞑想しようとするだろう。つまり、あっち側で、あっち側の人として、あっちの物語を求めて、瞑想するだろう。そのあいだ、こっちとは関係できない。

あっちのものと関わらないだけで、こっちの意識を知覚する能力が発達することを知らねばならない。しかし人間が瞑想するとき、なぜ一秒で想念と関係するのか。想念とは関わりのない純粋な意識としてただ見ることができないのか。ここには、欲求という大きな錯覚との関与がある。次の引用は、魂が本来の意識に戻る前に習得すべき内容である。

弟子は欲求を取り除こうという気持ちで欲求と積極的に戦うのではない。弟子は欲求を(見習いの弟子が行うように)変性しようとするのではなく、欲求にどのような関心を払うこともやめる。弟子は注目という必要な刺激を欲求に供給しなくなる。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 上」p.267

関心を払うことをやめると書いてある。それは(見習いの弟子が関わりたがる)理屈や動機からではなく、ただ何とも関係ないという感覚からである。それですら、最初だけである。関係ないと感じることすらなくなり、自身である魂への完全な集中のみになる。このような喜びの流れに入らねばならない。それはいかなる個人の努力とも関係していない。個人の行為ではない。個人は、個人的なことに関心を払うことを止められるくらい、瞑想にて魂との融合を深める必要があるだけである。最初から最後まで、人間意識という迷いの払拭を手伝い導くのは自身である魂である。人間がいま自分と思っているのは、思っているという言葉が示すとおり、想念でしかない。「どうすればよいのか」という質問は、迷っている魂が関わりたがる典型的な騙す想念である。どんな想念とも真の自分は関わっていない。その、関わっていない内なる者の感覚や痕跡を、瞑想者は発見し、発見することで魂へと意識を焦点化させる術を習得し、この世のいかなるものへの関与もやめて、自身である魂への愛着を発達させねばならない。つまり、魂への集中だけが喜びで、それ以外はすべて苦痛になる状態が解放前に訪れるだろう。

数日前、ある人が言った。「一年くらい前から、ずっと見られている感覚があります。何を話していても、何をしていても、ふと、誰かに見られている感覚が襲ってきて、怖くなるのです」と。このような想念と関わらなくなることで、見られている人は、見ている方が自分であることに気づくだろう。間違った肉体人間を自分となぜか思っているから、「見られている」という表現になるのである。あまり考えないことである。人間は人間として考えることで人間を養い、事を難しくすることを好む。魂は、一切を無視する。何の興味も持たない。なぜなら、人間が個人的な情愛や幸福に没頭しているように、魂は自身を通して表されている愛や喜びに没頭しているからである。

人間は「分からない」と言う。そう言うことで、問題にしようとする。魂は、「分からない」という想念を無視する。こっちの自分を信じることで、何も信じないテクニックを習得すべきである。本当に何もかもをも疑うことができる者は稀である。必ず、何かを信じている。信じたものは所有されるだろう。つまり、それが魂の牢屋になる。何も信じないなら自由である。信じないとは、関わらないということである。関わらないとは、見ないということ、注意を向けないということである。これによってのみ、純粋さは保持される。これが集中であり瞑想である。この集中が達成されたとき、瞑想は観照になり、人間の魂はようやくすべての魂に帰るのである。この一連の文章の内容はいたってシンプルである。そのシンプルなことが自身においてできないならば、それは興味深いこととして、見る必要がある。自身をありのままに見ることである。何かを達成するために見るのではなく、そのような個人の目ではなく、いかなる欲求や三界のフォースとも関わらないことで、内なる魂の目で見ることである。すると、見られているのもまた自分であることに気づくだろう。それは一つの意識なのである。

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