夢とは何か

夢は、日頃からマインドを統御していない者が見る雑念の延長である。したがって夢は苦痛である。「知的怠慢」の罰である。思考がほったらかしにされており、そこには意識と無意識のエネルギー的な対立がある。その齟齬と摩擦が人に夢の苦痛性を認識させるのである。一般の人は無意識に夢と惰眠を貪って問題を感じないが、瞑想者は、いかなるときも意識つまり気づきの監督下から自身を放り投げてはいけない。それは無意味である。絶え間のない意識の目覚めが肉体の眠りを保護すべきなのである。自我だけが眠る。真我はつねに覚醒している。

人はマインドの思考する能力を知性と見なしている。瞑想者は、これが知性ではないことを知っている。マインドは無知であり、本質的に錯覚を投影し、静められるべきものである。真の知性は静寂と沈黙の彼方にある。この段階で、人間の知性つまり低位マインドは、ただの受信器官であることが知られる。それは純粋意識つまり魂の管理下にあるとき、脳と共に安らぎ、高位の知性に感応するための洗練すべき待機装置になる。したがってマインドは、想念という形態をまとう前のアイディアや、高位の存在からの印象づけに感応し、認識し、その後、物質界の反映である脳を通して解釈を与えるだけのものとなる。

瞑想の進展は、思考のコントロール能力に表れる。やがて日常も例外ではなくなり、たえず意識つまり魂の支配下に置かれ、何事も気づきの「眼」が観照するようになる。これはさらに、睡眠時も例外ではなくなり、たえず真我である能力を人間に喚起するものである。ここで、苦痛の定義を見直す必要性に直面する。通常、人は漠然と苦しみを感じる。つまり、苦しみが何なのかを知らない状態である。ただ苦しい。これでは解決しない。苦痛を見るとき、それは魂を介した純粋な真我のエネルギーと、人間を構成する三重の体を通った後つまり誤用された結果としてのフォースの間に見られる対立にあることが知られる。同時に、これが全ての病気の根本的な原因であることも観る者には理解される(この考えを人類という単位に敷衍し惑星の病気について思索することには価値がある)。ここで次の文章を思い出す。

瞑想の目標は、流入するフォースすべてを自在に作用させることであり、結果として、流入する魂のエネルギーを妨げるものはどこにもなくなり、閉塞や鬱血は起こりえなくなり、(肉体的・サイキック的・メンタル的・霊的な)力の欠乏は肉体のどこにも見られなくなる。つまり健康になり、高位と低位のすべての能力が完全かつ自由に使えるだけでなく、魂と直接接触するようになるのである。

アリス・ベイリー

したがって、統御されていないマインドがいかに無意味であるかが知られるだろう。思考の放縦は害悪であり、霊的な益つまり真我を見失わせる。瞑想時のみならず、可能なかぎり、思考はコントロールされる必要がある。これは逆説的な言い方をすれば、安らいだ集中である。脳とマインドが魂に対する集中力を得るとき、それらは魂に安らいでいることを知るのである。

このとき我々は意識というものを知る。人間の意識は無意識である。言い換えると、それは犠牲者であり支配者ではない。この言明は、思考する者を必然的にカルマの研究へ導く。何が原因を始動させるのか。思考という形態をまとう前の存在、つまり質料と意識つまり「私」との関係はどうなっているのか。つまり、どういうときに「罪」が発生し、何をもって「罪」と呼ぶのか。真我ではなく、偽我としてエネルギーを誤用するということ、つまりフォースに「私」が使用されるときが始動ではないか。ならば「私」とは何なのか。これもフォースである。あるいはその束である。……この簡単な思索の中に神秘を解く鍵がある。瞑想の秘密と価値を知らせる光がある。これ以上は読者の中におられる思考者つまり魂に委ねる必要がある。

こうして内在の沈黙に思索の糧を得るとき、結果として、夢の解釈は我々が現実と呼ぶ世界にまで及ぶことになるのである。何が夢なのか。結果はすべて夢ではなかろうか。原因つまり一者であられる方、真我があらゆる夢の実相ではなかろうか。焦点を合わせているのは結果なのか原因なのか。合わせている私とは何なのか。私もまた結果ではなかろうか。……こうして、夢と我々の世界つまり「私」が連結するとともに、実在つまり真我が何であるかという啓示を必然的に呼び起こすのである。そのとき我々は言うだろう。「真我以外はすべて苦痛である」と。

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