失敗した人生

悪意を持つ者が敵を陥れるために、発言の一部を切り取り、印象操作をするといった事があるが、マインドも似たような性質を持っている。人は失態を犯したり、失敗したと感じることがある。自分を責める気持ちが強く、気を病む人もいる。そして不幸になり、霊的な道に心の救いを求め、ありふれた教師から、それはあなたのカルマだと言われる。何もかも、カルマの一言で片付けられて困惑する。

カルマとは何なのか。原因と結果の法則とは何なのか。Aという原因がBという結果を招いたと言う。彼は、Aという原因もまた、別の何かの結果であることを忘れている。一般的なカルマの概念は一部の切り取りであり、それは魂の永遠の視点とは相容れないものである。結果には原因があり、その原因にも原因があり、それが延々と続いており、きりがないというのが事実である。もちろん、この直線的な描写はあくまで分かりやすくしたものでしかない。

失敗は完成の部分であり、それは栄光の一部である。永遠という観点からすれば、誰も責められるに値する者はおらず、自身の失敗を責める必要もない。大団円へと向かう映画ですら、その大団円を演出するためにいくつもの困難を描いている。いま困難にある人も、あまり部分にとらわれず、切り取りに惑わされないでほしい。内なる真我において、外的なカルマの話は論外であり、事実は失敗もなければ成功もない。これらは、時間や物語に没入しているマインドが使用する単語である。


失敗した人生。周囲の白い眼。そして孤独。一箇の個人として生き、土台と精神の拠り所が外の世界であるならば、人生は危ういものになる。大きな失敗は人生の破綻を意味し、死にたくなるだろう。この気分は霊的には悪いものではない。自我がおのれの無力に顔を伏せているとき、より大いなる者が姿をあらわしやすくなる。彼は自身の騒音をいま否定しており、自分が嫌だと思っている最中だからである。その苦悩の背後に、至福が重なっている。嘆きの背後に平和の沈黙が鳴り響いている。この意識へ入ること、人生の危機のさなかであれ、それに惑わされず幸福であること、出来事が影響を与えない中心の喜びにたえずほほえみをたたえること……私はこの意識に入ったまま、これを書いている。にもかかわらず、この意識へ連れ帰るということに、おそらく失敗し続けている。言葉や文章ではなく、もっと直接的に、これを体験させることはできないのだろうか。

数日前のこと、原因不明の頭痛に悩まされている人を治療した際、その者が発した言葉、「もしかしたら気のせいだったのかしら」。治すのにわずか三分。頭痛がなくなったという事実、どの医者も治療できなかったという事実、それを私という媒体を通して流れる力が治したという事実、これらを結びつけること、信じることが難しかったのである。「頭痛が再発することはありますか」と仰る。もちろんある。彼女の場合、頭痛の原因は日頃の悪想念の習慣にあるからである。彼女が目の前に現れたとき、もう頭痛で苦しいという状態だった。私は治療を行っている者ではないが、いくつかヒアリングしているうち、具体的な病気という形をまだとっていないと判断できたため、座ってもらい、目をつむってもらい、言葉で意識を誘導しつつ、私という中継体を通るフォースを、その者に頭痛を引き起こしている低い波動に焦点化し、引き上げた。すると、こんな簡単に治るなんて信じられない、本当に頭痛だったのかも今や疑わしい、という否定の反応である。彼女のどのような想念が問題を引き起こしているかを説明した。会社、会社の人間、関わりのある者たち、彼らへの不平不満、怒り、見下した態度、許せないという気持ち、これらが強く、ずっとそのようなことを考えながら生きている。するとストレスですかと仰る。自分の知っている概念で納得したい気持ちは分かるが、根本からの治療はその者にかかっている。悪想念の癖を自分で直さぬかぎり、そして批判や非難ではなく、それが愛に変わらぬかぎり、自身の内部で衝突し合うフォースは病気の原因になり続ける。

どの者の苦悩も、その者のいわば宿題であり、誰も代わりにやり続けることはできない。内なる意識へ入ることも、いくら言葉や文章で理屈を述べ続けても、実践はその者にかかっている。低い波動に生きてはならない。瞑想し、高き存在を知覚しうるまで意識に呼び込み、彼の波動と自身の波動を一致させなければならない。彼を知覚できない場合は、日頃からの自身の低い波動の癖や原因を知り、愛や思いやりといった、より高い波動で置き換える喜ばしい技術を習得しなければならない。それが難しい場合、どうしても許せない場合、その自分を許し、そして内なる者に助けを要請すべきである。助けてくださいではなく、助け給えであり、懇願ではなく祈願であり、それは祈願する者とそれに応える者との共同の波長の一致作業である。

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