投げ飛ばされる私

  • 外に向かうときは自我、反対方向である内に向かうときは真我。ならば、向かうのは誰か。
  • 「魂との接触」と自我は言う。外に向かっている意識が、反対方向である内を知覚したとき、途方もない幸福とともに内なる実体に溶け込み、私は魂と融合していると言う。その私とは誰か。
  • 「魂の波動」と自我は言う。頭部の上半球を覆い、リズミカルに刺激を与えてくる力、波動を自我は知覚し、魂の波動が苦しいとか心地よいとか表現する。その波動を感じているのは誰なのか。
  • 「私と魂」と人は表現する。違う。魂がマインドを通して外に向かうとき、個人という私を錯覚するだけで、錯覚しているのは魂である。したがって、私と魂は今現在、同一のものである。
  • このように、マインドを介して理解や解釈をするとき、それは分離して捉えられるが、マインドという外に魂が幻惑されるのではなく、反対方向である魂自身に魂が目を向けはじめるとき、探求を始めた私は存在せず、私は最初から魂であり真我であったことを理解するのである。

自分を探求者と思っている個人、女や男だと思っている個人に対しては、魂と接触し、魂と融合することが目標であることを印象づけるが、すでに接触し融合が始まっていながら、まだ外側の個人を自分と思い、「私と魂」と別個に考えているならば、その私自身が一体全体だれであるのか、不思議ではないだろうか。

想念とイリュージョンの世界に生きているとき、全てが分離して思考される。外の錯覚を見ているとき、マインドを介して個人的な私を投影しているだけで、これが分かったならば、魂自体つまり私自体にとどまる力が働きだすだろう。もはや錯覚を支え続けることは難しくなる。本当に錯覚を錯覚と知ったならば、自然にマインドは黙らされ、内なる栄光に絶句し、探求を始めた私はもろくも消え去り、五感を拠り所に活動してきた個人は意識の埒外に投げ飛ばされる。「それは急速に回転する車輪が、その表面から不純物を投げ飛ばし、寄せ付けないのと全く同じである(「宇宙の火 1」p.247)。

アストラル界は外へ向かう意識でも統御できるが、戦場がメンタル界である場合、従来のものの見方を根本から逆転させる必要がある。まだ個人として、肉体の私として物事を捉えているなら、外へ向かっており、それゆえ、魂の波動が休むことなくあなたを内側へ引き戻そうとするのである。探求を始めた私として魂と向き合うことを止めるべきである。その私と魂、私の意識と純粋な意識が異なるものであるという前提から自らを解き放つべきである。私と魂がすでに同一であると想念することは、テクニックである。やがて、マインドを介することなく内なる栄光それ自体にとどまるようになるだろう。内へ向いた目覚めた意識により、すぐに理論は現実になるだろう。その自然な意識、ひとつも不調和がない融合意識において、あれとこれ、私と私でないもの、主観と客観、内と外、このような分別や分離はもはやありえないだろう。

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