彼が私、力は彼

あるがままを受け入れるように教師は言う。抵抗しないようにと。この種の言葉を字義通りに受け止め頑張っている方に解説したい。受け入れようとか、抵抗しないでおこうとか、そのように抵抗しても意味はない。楽にはならない。率直に言う。低位我が抵抗であり、高位我が受容である。低位我ではなく高位我でありなさい、とそのような教師は言っているのである。つまり高位我の状態を低位我に強いても出来ない話である。

想念をしずめ、雑念を振り払うように瞑想の教師は言う。これも同じである。想念と自我は同義語であり、それを超えたものが真我である。マインドの統御というアイディアはヒントにはなるが、それを可能にさせるのは自我ではない。自我が雑念に対処して何になるのか。実際に起きることを述べる。瞑想を続けることで高位我つまり魂が訪れ、その高次の力が正しさであることを知り、それまでの自分の力を高次の力に委ねることのメリットにうっとりすることを覚えるのである。フォースがエネルギーに従順になり、無知が知恵を貪り始めるのである。乱れが、それを整えようとする慈悲の動きに感動し始めるのである。このようにして人は魂に愛着を抱き始める。これが合一へと導く。

日常生活では不徳を徳に変えようともがき、瞑想では雑念を静止させようと抵抗する。このような時期は存在し、それなりに意味はあるが、我々がこの段階を卒業するために学ぶものは、低位我と高位我の識別である。動いているものと、それを動かしているものの識別である。物質と質料の識別である。結果と原因の識別である。このようにして、弟子は目に見える結果という無数の形態から成る世界ではなく、それを可能にさせている原因の世界を学ぶようになる。それはあらゆる形態の背後に存在するその原因、あらゆる行為や出来事の背後で活動している原因、エネルギーとフォースに関する学びのことである。

性格が悪いとしよう。だから良い性格に変えようとする。これは低位我の領域でのもがきである。例えば私の性格は悪かっただろう。しかしパーソナリティーに関係なく高位我はやって来た。これを私は不思議に思った。素晴らしい人格にのみ、霊的な恩寵や現象は訪れうるものと考えていたからである。しかし現実はそうではなかった。霊性は、性格の良さを競うコンテストではない。いかなる性格にも関わらず、いかなる結果や表現にも関わらず、また過去にいかなる罪を犯したにも関わらず、人格の背後に非人格な”それ”はつねに存在している。神は選り好みしない。我々の焦点の合わせ方の問題だったのである。低位我でどうにかしようではない。低位我の動きと関係なく、高位我はそれを見ており、その内なる眼や落ち着きと瞑想で波動が合致したとき、その意識は現実のものになる。

瞑想しても雑念だらけだとしよう。初心者はこれをどうにかしようとする。私なら何もしない。絶対に抵抗しない。私と想念は関係がない。どのような想念が現れようが、真我はその背後に在る。想念に付き合うかぎり想念を育むだけだろう。私は低位我のいかなるフォースとも関係せず、高位我に焦点化することでフォースをエネルギーに対し従順にさせるだろう。それを行うのは高位我であり、そのような力は高次の力である。つまり我々は、低位我の動きではなく、高位我に焦点化することだけが必要なのである。すると、今この現在においてすべては実現されている。

「今」とか「ここ」とかを教える風潮もある。生徒は「今」を目指そうとする。「ここ」に意識を合わせようとする。なんと無駄な力みだろうか。こういうことは、エネルギーとフォースを識別できない段階で分かるものではない。自我意識ではなく、魂意識であるとき、現在という永遠が知られるのである。それまではすべて想念である。時間とは、映像や感覚の移り変わりを認識させる脳の働きに対するマインドの概念ないしは考案物である。単なる想念である。我々は関与する必要がない。どのような「既知」とも真我は関係していない。「既知」に関わらせる脅迫観念つまり恐怖が無知である。したがってクリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言った。正確には、何とも関係がない、である。原因は結果の奴隷ではない。魂がマインドのフィルターを通して外に焦点化するとき世界は存在する。魂がその錯覚に気づき、苦しむとき、反対方向へ帰ろうというアイディアが彼を捉えるようになる。外ではなく内、非私ではなく私を見るようになる。すると、私は私である。私がそのままでいいなら、私は受け入れられており、私がすべきことはなく、私は何にも影響を受けることなく、すでにして平和である。単純にして一である。私は受容であり、調和であり、自然であり、あらゆる主張から自由である。そこには何もありはしない。無いゆえに真我である。

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