恵まれた道

人類の教師たちは、芽を出しかけたイニシエートに識別を実践するよう指導し、次のものを識別するという困難な課題を与えて訓練する。

  1. 本能と直観
  2. 高位マインドと低位マインド
  3. 欲求と霊的衝動
  4. 利己的な熱誠と神聖な動機
  5. 月の主方から放射される衝動と太陽の主方の展開
ジュワル・クール「ホワイト・マジック下」p.306
目次

本能と直観

ここで言う人間の本能は、純粋に動物的な本能のことではなく、条件づけられた人間の存在状態を指している。人間体を動かす力や衝動が神聖で霊的なものではなく、アストラル体やメンタル体を養い自我の拡大へと寄与する方向性に無知のまま従っている状態を指している。対して、このような自らの状態をありのままに見るためには、人々が「頭」と呼ぶ低位マインドを魂から統御し(そこに統御しようという個人の意志はない)、それ以上の知性や純粋理性と呼ぶべき直観に大なり小なり到達していなければならない。弟子が働くときに立脚する知的な点とは本能的なものをありのままに見渡すことのできる純粋知の領域からである。これには長年の瞑想が必要である。瞑想は苦行でも修行でもなく至福であるゆえ、言い換えると、長年の至福が必要である。

高位マインドと低位マインド

現在、人類の目標は低位マインドを鍛えることである。これが学問やインテリジェンスだと今はみなされている。つまり頭を鍛えることである。初学者は、霊的な道もまた頭で理解するものだと最初に錯覚する。このような低位マインドの動きが瞑想によって静められたとき、背後の知性――高位マインドの領域が知られるであろう。それは、沈黙により静かになった頭が魂と繋がったとき、その頭に知的な啓明を与えるものである。この沈黙の領域から弟子は知識ではなく知恵を扱うようにならねばならない。頭は知識と関係しているが、頭を静めるという瞑想の段階において関係する最初の知性は知恵である。知識は非実践的で静的な死物だが、知恵はそれ自体が実践的で動的な力である。

欲求と霊的衝動

現在、人類を本能に引き留めおく主な手段として欲求が利用されている。よって、欲求を満たすために人間は行動する。欲求を満たすことが人生になっている。あるいは、満たされない欲求に抗うことが人生であり、それゆえ永久に満たされることはない。一時的に満たされても、次はその破壊が訪れ、新たな欲求が誕生し、これにはきりがない。幸福は決して到達点ではない。一つの幸福の達成は、それが不十分なものであり、より良い幸福が他にあることを発見させる新たな幸福への出発点でしかない。よって、恒久的な幸福はありえず、それは相対的な感覚ないしは概念であり、ゆえに幸福のためには常に不幸が必要となる。ゆえに知的な人間は、幸福と不幸を同じものとみなしている。

そのような境地が冷静と霊性の土台を築き、欲求を死滅へと向かわせ、それによって元より存在する霊的衝動に接近するようになる。欲求へと向かっていた個人の意志は、霊的という言葉が意味する神聖なる意志へと急速に取って代わられることになる。人間は、個人的な目標に意味がないことを悟り、一体性の理解を軸として、全体の福利をオカルト的な観点から理解するようになり、人類の霊的向上を妨げているものの除去に取り組もうとする霊的衝動と自らを一致させるようになる。このとき、彼を通して行われる行為は奉仕になる。真理すなわち神の理(ことわり)のことを我々は法則と呼んでおり、法則と合致した意志の働きのことを奉仕と呼んでいる。それは決して個人や頭から行われるものではない。霊的衝動から行われるものである。

利己的な熱誠と神聖な動機

不足している者だけが利己的である。満たされているものは利他的であり、つまり全体的であることでさらに満たされ、ゆえに分かち合いを喜びの原理とみなす。神は、分かち合うための天の富を無限に流す用意があるが、それは個人が純粋媒体へと器を仕上げたときのみである。それまでは多かれ少なかれ不足の感覚があり、したがって恐怖に支配されているゆえ、個人は弱者の部類に属さねばならない。ゆえに他者よりも先んじて自己を輝かせたい、快適にさせたい、安全にさせたいという欲求に逃れようとする。利己性とは常に苦し紛れである。そう理解できるか否かは意識の進化段階に依存する。調和と不調和の識別の理解度に依存する。純粋な個人はその個人を優先するが、瞑想し魂と交わるような者は利己主義や有害性にいかなる価値も見出さない。

したがって、利己的な霊的目的ですら犠牲にされるのである。それは依然としてアストラル的な欲求でしかないこと、より洗練された欲求ではあるが依然として本能の一部に属することをありのままに見る。霊的な達成を求める個人意識から人は歩みを開始するが、しばらくすると、その欺瞞に気づくであろう。それは、霊的な不足という錯覚から生まれた恐怖を基軸とする個人の欲求でしかない。そのため、「今生で達成すること」をしばしば我々は目標とする。恐れゆえに。しかし、利己的な熱誠というグラマーを見抜いた者は、魂の視点から見抜いたのであり、したがって自身が魂であることを知るがゆえ、周期的に着せ替えられる衣装という個人には興味がなくなり、今生にこだわる必要がなくなる。性急さというグラマーに絡め取られて失敗することがなくなる。どの生涯であれ本物や本質は魂であって、外衣の個人やパーソナリティーは偽の自己であり、したがって生死にまつわる諸事情に対する恐怖からも自由になり、利己的な熱誠に執着する理由が存在しなくなる。我々は魂である。転生するのは魂であって、個人は常に数十年で死ぬ。

月の主方から放射される衝動と太陽の主方の展開

「月の主方」という専門用語は、諸体のエレメンタルつまり我々の低位性質を構築し、下からそれらを統御する存在たちのことである。(人称代名詞を使うのもおかしいが)彼らは人間以下の存在であり、人間が進化へ向かうのに対して、退化へ向かっている。彼らが肉体やアストラル体やメンタル体を組み立て、構築したものを介して自身の意図、霊的な衝動に逆行する意志を人間に強制させ、進化ではなく退化へと奉仕させている。これらについて深く語るのではなく、これらを逆に統御する「太陽の主方」を我々は強調せねばならない。細菌やウイルスが太陽光によって破壊されるように、人間を邪悪で低劣な表現へと駆り立てるウイルスを殺菌するのは内なる太陽だけである。太陽の主方の最初の代表者が魂である。オカルト文献が「太陽天使」と呼ぶ魂の展開を通じて、人間は自身に内在する低位性質の死滅を輝ける光のなかで眺めることになる。内的太陽の熱と光に我と我が身を晒し、常に殺菌効果を最大化させるべく、瞑想という浄化に浴する習慣がひじょうに大切である。瞑想なくして、どのようにして太陽の主方と接触するというのだろうか。したがって、最高のカルマ、最大の幸福とは、瞑想に打ち込めるカルマである。

瞑想で真理を学べるありがたさ

人間のどのような困難も打ち消し、真我と真理を教える太陽の主方と交わることを可能にさせる瞑想のありがたさには感謝してもしきれないものである。もし人間が瞑想の真価を見出すほど進化するならば、呆れるほど驚くだろう。瞑想を過小評価するか見過ごしてきたことにも呆れるだろう。そして、いくら過大評価しても物足りぬ瞑想の素晴らしさ、瞑想が導くものの素晴らしさに驚嘆するであろう。この世では無一物で誰からも過小評価されていようが、価値の基準を逆転させ、偽物につけられた価値ではなく、本物の価値のみを理解したならば、自身がすでに天の富で満たされたことを知るであろう。この世の金と天の金を識別する者は幸いなり。この世の価値と天の価値を識別して生きる者は幸いなり。どちらに重きを置くであろうか。一箇の個人の生涯という偽の光に目眩ましを受けることなく、永遠に価値あるもの、それ以外をすべて無価値に変える真の価値へと邁進できる瞑想には、平伏す思いである。真理に直面したときの個人の象徴が真の礼拝である。したがって瞑想は個人にとっての礼拝である。この態度が明け渡しを促進させるであろう。

瞑想に没頭できるような者は、あまりに恵まれている。ほとんど嫉妬に値する。もし瞑想の真価を最初から知っているならば、この世のどのような富も、あるいは何もいらぬから、瞑想させてくださいと言うだろう。ところが、それでは学びにならぬゆえ、最初は分からないのである。偽物より本物が上回り、価値が逆転し、伏し拝むほど真理に恭しくなるとき、人間はおのれを超越し、帰還し、そもそも我であったが気づかなかっただけである真我に溶け込むであろう。低位マインドを静め、霊的衝動に身を委ね、本能ではなく直観によって統御され、いかなる欲求にもそのとき無関心となり、その純粋な目覚めに昇る霊的太陽の光と熱に至福のまま溶かされゆくとき、人間時代には決して達成されることのなかった幸福が永遠に達成されたことを知るであろう。それは今も達成されているが、我々にはまだ分からない。しかし、我々には瞑想がある。ゆえに、達成は約束された。

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