意識と世界

ラマナ・マハルシは、世界は投影であると言います。それは具体的にどういう意味なのでしょうか。

例えば、私がこの文章を書いているとき、そこに意識を保っていなければ、勝手にあなたの見ている世界は私には存在しなくなります。つまり、マインドを通して見るときのみ、世界は存在するということになります。

世界は本当に存在していないのでしょうか。私には存在するため、かなり疑問に思われます。

存在の定義の問題であり、実在であるかと言われればそうではなく、存在するかと言われれば意識が何と同一化しどのレベルの振動率であるかで知覚されるものや存在と見なされるものは変わります。

目に見えているものは何なのでしょうか。

普遍マインドの産物であり、神の想念の結果であり、我々のマインドはこの普遍的な神の想念に沿った働きをするゆえ、同じ世界を見ていると言えるかもしれません。

あなたがこの世界に意識を保たないなら世界はどう変化するのですか。

思考がないとき、文字を読めません。映像を保てません。つまり時間と空間に関係するあなたの世界のことは何も分からなくなります。目を開けていようが閉じていようが、実在でないものは何であれ存在できなくなります。例えば、かつて集中が習慣になってきた頃、物体と思われているものですら勝手に動いており、ゆらゆらしたり、波打ったり、伸び縮みしたり、呼吸しているように、つまり生きているように躍動したりして、不思議で色々と実験をしたことがあります。例えばテレビは固体と言われますが、液体のように変化させたり、特定の文字や映像だけ動かしたりと、それぐらい実在ではないです。

私は生きることが苦しく、もし世界が意味もない仮の現象でしかないならば、自殺したいとさえ思うことがあります。なぜ投影でしかない世界に生きている必要があるのでしょうか。

そのような問題を解決するためには、あなたがよく質問するラマナ・マハリシが言う通り、誰が投影の世界に生きているのかを知るより他にないと思います。私の集中の前で世界が存在の形態を留められないように、あなたの前提の「私」の結果が世界だと知り、つまり世界の後ではなく前に「私」があることを知り、その「私」に留まることが必要です。内的な意識に入るならば、まだマインドの活動がある非常に低位のサマーディーのような意識ですら、あなたは苦悩を全く感じることができなくなります。それどころか、それは喜ばしいもの、静かで素晴らしいものです。

そういう意識を体験したくて、「私は誰か」の瞑想を何年もしましたが、何も起こりませんでした。

ラマナ・マハリシの言葉でさえ忘れなければなりません。ラマナ・マハリシが教えるから「私は誰か」とあなたは問うのであり、本当に私を見たい(もしくは疑問に)思っておらず、あなたが見ているのは目をつむっていても想念なのです。私という感覚はいったい何なのでしょうか。私を見ている者と、見られている私という区別がそこにあるでしょうか。思考と思考者は同じものです。それは共に想念です。したがって想念で私を見ずに、眉間から、ただ意識にとどまってみてください。一秒、意識にとどまれるでしょうか。

意識そのものにでしょうか。自我の意識でもかまわないのでしょうか。

自我意識とは想念のことなのです。マインドは多少まだ活動していても良いので、ただ意識に一秒だけ集中し、焦点を合わせられるでしょうか。

おそらく。

ならば、何秒後にあなたは新しい想念に連れ去られるでしょうか。おそらく一秒後でしょうか。しばらくその想念に連れ去られたあと、それに気づいたならば、また一秒、意識に戻れるでしょうか。

一度できたことは次も出来ると思います。

それをやると、徐々に意識にとどまる時間が長くなると思います。そして、想念が起きるとき、あなたは何の想念に連れ去られたか、すぐに気づくようになるでしょう。つまり妄想の時間を持続するのが難しくなるでしょう。思考しているより集中している方があまりに心地よく、また勝手に集中状態に入るようにさえなるでしょう。これは昔、私がやったことのあるものであり、とりわけ効果的だったものです。

正直、ピンと来ません。たぶん失敗するでしょうし、半分諦めの気持ちが強いです。何をやっても駄目なのです。それで苦しんでいるのです。たぶん、気力がないです。

気力がない場合、あなたは何もする気がおきません。なので、何もしないでください。私はそういうとき、よく眠っていました。

とりあえず試してみます。無理だったらまた質問させてください。

分かりました。

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