私は苦悩を呼び寄せているのか

アストラル・ジャンキーの話には驚きました。私が苦悩の感覚が好きだということは思い当たる節がないわけではありません。以前、もしや自分はわざとこのような感覚を呼び寄せているのでは、と思ったことがあります。しかしながら、当然それら苦痛は気持ちの良いものではありませんので、結局否定しましたが。

質問者

「わざと呼び寄せている」のである。言い換えれば、自ら同一化しに行っている。これを長らく自作自演と呼んできた。彼は「苦痛は気持ちの良いものではないので結局は否定した」が、呼び寄せる過程ではなく、呼び寄せた後の自我の快不快を根拠に否定したのであり、彼は自身が自我でも感覚でもないことを思い出す必要がある。根拠は呼び寄せた後ではなく、呼び寄せる過程にある。根拠は自我の感覚知覚ではなく、人間の魂(人間の意識)にある。まとめると、

  1. 彼は自我ではなく、魂である。個人ではなく、意識である。結果ではなく、原因である。
  2. 彼である魂が錯覚し、物質の誘惑に負け、結果として同一化し、自我意識や個人を自分と思うようになる。「意識には形が伴い、それは物質の表面に映る絶対の反映である(ニサルガダッタ・マハラジ)」。
  3. 魂が形態と同一化するとき、そこには形態の引力と、形態へ向かいたいという魂の欲望と衝動がある。なぜなら、このとき魂は幻惑されており、誘惑に勝る要素はないからである。
  4. この同一化、相互に結びつく過程において、存在するのは欲望と衝動であり、そして全ての欲望と衝動には「ある種の気持ちよさ」がある。
  5. その後、自身を個人と思い見なす(マインドと同一化した)魂が、形態に応じて快不快を知覚し、「私は楽しい」とか「私は苦しい」とか言う。
  6. あまたの経験ののち、魂つまり「意識は、形態や感覚知覚、外に向かう傾向に真の喜びや楽しみはないという事実に目覚め、ここから外に向かう傾向を徐々に撤去させ、霊を形態から抽出するための新しい努力を始めるようになる(「魂の光 」p.381)」。

物質界に顕現したすべての生命の中に、実を結ばなければならない胚珠つまり種子が宿っている。形態の誕生の原因になるのは、このような種子である。かつて蒔かれたこれらの種は、いつか実を結ばなければならない。それらが諸体の原因つまりスカンダであり、その中で結果が実を結ぶ。それは欲望、衝動、責務であり、人をいつまでも回転しつづける巨大な車輪に縛りつけ、物質界の存在へと下らせ、法則のもとにそこで一つの生涯でその人が扱えるだけの種子が実を結ぶ。このような主観的な胚珠が形態を生み出し、その中で胚珠が実を結び、成熟し、完成する。

アリス・ベイリー「魂の光 」p.387

質問者は「もしや自分はわざとこのような感覚を呼び寄せているのでは」と気がつき、その後、快不快を根拠に否定せざるをえなかった。より深く瞑想し意識を探求してみるならば、自我意識の原因である「外へ向かう傾向」つまり形態との同一化には、「欲望や衝動」もしくは「喜びや楽しみ」の要素があり、その同一化の結果としての経験を通して、「外に向かう傾向に真の喜びや楽しみはないという事実に目覚め」、苦と楽、幸と不幸、罪と徳、善と悪などの相反する対をなすものに対してバランスを取るようになり、どちらにも振れないようになる。この中道を通して、人は形態ではなく自身である中心、つまり魂と同一化するようになる。これが純粋意識である。

  1. 形態は外に向かう衝動つまり傾向の結果である。
  2. 瞑想は内に向かう傾向の結果であり、意識を形態と質料から抽出して、中心に撤去する能力の結果である。

悲劇のヒロイン症候群や自己憐憫といった誘惑もまた、苦悩であり快楽である。もしくは苦悩による快楽である。これは分かりやすいと思うのである。苦悩だが、背後でそれを喜んでいるある種のサディスティックな余裕の感覚がある。これは、全ての心理的な苦悩に共通するものである。この、背後で喜んでいる存在・感覚をじっくり観察してみるとき、苦悩の背後にいる私は、完全に”余裕をぶっこいている”。肉体人間が悩み苦しみ自殺しようが、背後の余裕に変化はない。この余裕はまだ自我を含んでいるが、もっと探求し、見て、遡るならば、余裕というものが魂の意識に基づいていることが理解されるだろう。これに気づくとき、つまり魂自体に同一化するとき、我々は次のような境地に入る。

そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスである魂の中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在についての内的な認識に基づく至福である。低位界層のあらゆるイリュージョンを経験し、それを経験し終え、それを変性し、超越したとき、人はこの存在を知る。人が努力を行う小さな世界が消え去って、無に帰したように見えたときでも、それはなおも生き続ける。それは「I AM THAT」という知識に根ざしている。

アリス・ベイリー「イニシエーション 」p.113

この結果、人は苦しむ必要がなかったことに驚嘆する。

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