アストラル・ジャンキー

君に腹立たしい人物はいないのか。

あなたが自我意識に焦点を当てるときのみ、他人が存在するだけである。あなたも他人も非実在であり、ともに想念の中にのみ存在する。

言い方を変えよう。君は腹立たしさを経験したことがあるか。

たくさん。

ならば、その腹立たしさを君はどう乗り越えてきたのか。

あなたの前提は自我である。ここだけが問題である。私は真我に集中してきたのであり、自我の腹立たしさには構いもしなかった。

そんなことは聞いていない。腹立たしさを経験したことがあるなら、その時は少なくとも腹立たしさに君は直面し、何らかの対応を迫られたはずだ。

私が自我に焦点化していたとき、自我がすることを自我がした。

では、四六時中、腹立たしさに直面している短気な私が瞑想をする場合、それは克服されると信じてやるべきだろうか。

克服するのは誰なのか。あなたの質問の前提はすべて錯覚の自分である。その領域で克服したり屈服させられたりを繰り返して何になるだろうか。すべての前提はあなたという自我である。そのような偽我ではなく、真我にのみ愛着を持つべきである。

君の欠点を言おう。我々が真我を知覚していないことを無視し、君の意識からのみ語るところだ。私は真我が分からず、偽我しか感じられないのだ。こんなことも理解できないのか。

あなたは役柄に入り込んでいるが、あなたという存在はたった数十年である。そのような者と関わらず、静かに瞑想する勇気を持つべきである。あなたがひどく臆病なのは、意識の土台が自我だからである。それは吹けば飛ぶようなあばら家でしかない。真の不動産を土台にする必要がある。

君に分かるように再び言い方を変えよう。自我が、どうやって真我を知覚するのか。自我が知覚しているのは自我である。

意識が形態と同一化するとき、あなたの言う自我意識が知覚される。意識が形態との同一化をやめるとき、その自我意識は知覚されないのである。

形態とは肉体のことを言っているのか。

肉体よりも問題なのは、想念形態や情緒形態(実際はその混合)である。例えば、あなたの思考も感情も、それらは共に形態である。肉体も含め、すべての形態の材料はエーテル的な質料である。我々の世界におけるどの質料も、我々の太陽系が存在する以前に、別の形態の材料として用いられたものであり、そのときの傾向を未だに保持している。したがって、この質料で組み立てられた形態がどのようなものであれ、それは神性とは相反する傾向を志向するのである。これらの形態といまあなたは同一化しており、その結果が真我と相反する自我意識である。

では、腹立たしさは形態だと言うのか。

アストラル界で顕現している形態もしくは集合体である。それは眉間のチャクラからいかようにも操作できるものである。あなたの場合、太陽叢のチャクラからそれらの形態を自由に(つまり盲目的に)出入りさせており、結果、あなたは感情に条件づけられている。これを私は自動人形と呼んでいる。

さすがについていけない。君は高度な話をしているつもりだろうが、それが私に何も意味しないことを認識する努力をしてもらいたいものだ。

何を感じようが構う必要はない。静かに瞑想し、自我に耳を傾ける愚かな時間を減少させるべきである。

その瞑想を何年も私はしているのだ。何年も静かであろうとしているのだ!

それで十分である。あとは、瞑想中に生じた学びや気づきを大切にし、自我の言うことよりも、あるいは本を読むことよりも、瞑想中の学びを優先した生活を真剣に送ることが肝要である。

何の進歩もないのにそれで十分だって? 私は明日にでも腹立たしい人物を殴り殺すかもしれないのだ。それから刑務所に行き、果ては死刑になるかもしれない。そのどこが十分なのか! いつ何が起こるか分からない。何をしでかすか分からない! 私は猛烈に怒り狂っている。

それにある種の気持ちよさを感じていることに気づいているだろうか。アドレナリン・ジャンキーは世の中にごまんといる。過度なラジャスに高ぶるときの感覚を、アストラル体としてのあなたは喜んでいる。これは苦悩や悲哀や自己憐憫など、いかなるアストラル性質(もしくは性癖)にも言えることである。つまり、あなたはその感覚が好きなのである。

私は暴力に生きる気はなく、善に生きたいがため、瞑想を続けた。私はアストラル体ではないため、内なる魂に集中を続けた。浮き沈みを繰り返しつつ、少しずつ諸体の性質は神性に適うものになっていった。私は相手にしないすべを覚えた。魂として、アストラル性質を無視し、気にも留めない静かな生活を選択した。生活のすべてを、可能なかぎり魂に費やした。休息するときでさえ、それは次の瞑想のための休息であり、諸体の低位性質を克服する魂の力を生の全幅において信頼し続けてきた。このようにして融合したのである。

私には努力が足りないのだろうか。

いや、努力したがる自分に酔っているだけである。彼を無視して、瞑想がもたらす静寂にただ落ち着くべきである。そのうち魂のパワーを入手できるようになるだろう。めげずに、惑わされずに、内なる覚者を信じるべきである。彼はあなたを知っている。あなたが彼に気づくまで、瞑想の門にて彼は待ち続けている。

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