暴れ者

人は解決に生きている。現状の打破、新たな旅立ち、より良い生き方などとは言うものの、それらは単に、現状からの逃避である。これを繰り返すのが人生と思われているが、解決した者はいない。つねに新たな問題が立ちはだかる。そして解決を求めつつ、問題から問題、逃避から逃避で人生は終わる。このような精神たちに欠けているのは、問題ではなく問題の根っこを扱う内的な知恵への感受性である。彼らは外的な目に見えるもの、出来事、感じられるものを現実と見なしており、実在と非実在が逆転しているために迷っている。

頭で生きているため、分離して、問題に悩む。問題について考えれば考えるほど、自ら作り上げた想念形態にエネルギーを注ぎ込むため、問題を強めることになる。彼の問題は問題ではないが、彼はその問題が現実的だと信じているのが問題である。この者の背後の霊的な自己を見てみよう。彼の問題と関与していない。その問題を知りもしないし、興味を抱くこともない。この霊的自己は本来の自分だが、誤った現実感に人は捉えられており、問題が主人になり、彼は人生を通して解決へと奔走させられることになる。この悲しみを慈悲の目は知っているが、その美しい目は観照するだけである。

問題は、すでに解決していることをまず知らねばならない。これを嫌がり、これに異を唱える声にはまず黙ってもらおうではないか。解決したら困るから、あなたは異を唱えようとするのである。なぜなら、何もすることがなくなるからである。何もする必要がないとき、自我は養分を得られず、あなたを動かそうとしている欲望や恐れといったエネルギーのはけ口に対し、あなたのマインドは困惑するのである。何かしたい、何かをしていたい。それが本音ではあるまいか。こうして外へと向かい続けることがわれわれの生になる。これが本質的な問題である。そして、その解決だけが問題である。言い換えれば、真実を知ることだけが重要である。真実が、一発ですべてを解決することを知らねばならない。

この真実は、誰に教わる必要もなく、誰も教えられない。自我は困るだろう。他人に頼って生きてきた者は困るだろう。自分だけで見い出す自信がないのである。彼は、世の中で弱くされた。自信を喪失させられた。自我に生きたため、競争で負けたり勝ったりし、分離し、比較されて生きてきたため、高い人と低い人という錯覚を信じており、自身は後者であり、ゆえに自信がないと感じる。彼に自信を取り戻させる必要がある。彼の目をふたたび開かせる必要がある。なんだ、こんなことだったのかと、静かな喜びのなか、得心してもらう必要がある。

理屈では、感情や欲望などを表現するときに使用する感覚体、いわゆるアストラル体を最初に統御し、次に想念やイメージなどを表現するときに使用するマインド、いわゆるメンタル体を統御することで、魂つまりコーザル体と整列し、合一するという話がある。これは、霊的な幼稚園生のためのやさしい手引書であり、頭の中の話である。実際は、真実や真我を知ることが先である。すべてを統御し、すべてを解決するのは彼である。難しいのは、このような真の霊的自己を知るためには、アストラル体やメンタル体が魂に統御されている必要があるという見方もまた事実であるところである。このようなことから、見地や角度による無駄な混乱を避けるため、順序を重視しないように教える教師もおり、知的なタイプの弟子のために順序立てて教える教師もいる。向いているのは後者だが、一長一短ある。どちらも到達できるが、前者は知的でないため弱々しく、歩みが遅く、自身が何をし何に関わっているかを知らず、いわば神頼みである。とはいえ、考えすぎる弟子に対して、時には良い教えである。

秘教徒が見習いの弟子と呼ぶ期間は、このような理屈を基本的には頭の支えとし、これに沿って努力が為される。そのうち、相反する対をなすものと呼ばれる、右でも左でもないもの、どちらでもない道を発見する。これはアストラル界の話である。つまり、アストラル体が統御され出したため、(自我の視点からすれば)魂と接触するようになったというだけの話であるが、彼はその痕跡を見つけ、痕跡が教える中道を周囲から孤立させて歩み始めたばかりである。次に、彼は感情や欲望からそれなりに魂として自由であるため、情緒的な想念ではなく、単に想念を扱うことができるようになる。このとき、彼はメンタル体の統御に多少なりとも成功し、頭の世界に生きなくなるため、事はシンプルになり、個人的な悩みや苦しみは終わる。心理的、情緒的な自作自演からはかなり自由になる。頭の時代は終わり、悩んだり考えたりする人がいなくなるだろう。想念や感情や問題とは関係しなくなるだろう。彼がすべきこと、理解すべきことは、エネルギーとフォースである。高位のリズムを、まだ存在する自身という低位のリズム体に照射することである。

アストラル体は、自我の時代に統御を証明できるが、メンタル体は、自我そのものに働きかけるため、頭の世界からは自由であり、且つ魂としてそれを行う必要がある。つまり、見習いの弟子が魂と自我を行ったり来たりする時代が終わり、自我ではなく、魂が現実になっている必要がある。これは文章にするとき難しい話になるが、時が来ればただの事実になるため、失われた自信という錯覚に騙されず、信じてついてきてもらいたい。前回の記事で紹介したように、リズムの法則や、波動、エネルギーとフォースの世界にわれわれは生き始めねばならず、生命である唯一なる神聖エネルギーと、「物質に固有のフォース」があるだけだという初歩的な理解にまず到達しなければならない。そして、引きずり下ろす後者のリズムに生きているときに味わうのが自我意識である。したがって、前者のリズムを、識別された後者のリズムに賦課することがわれわれの仕事である。この科学的な職務はアジュナ・センターで行われる。やり方は、瞑想中に自動的に習得される。つまり、自身である魂によって行われる。まだ自我意識が優勢な場合は、瞑想におけるこの過程は治療であり、錯覚を次々に癒やす。魂意識が発達したならば、この仕事は理解をもって行われる奉仕である。ここに気づくとき、この大いなる仕事は、何も小さな自我や個人や自分のためのものではないことが理解されるだろう。なぜなら、すべてはつながっているからである。しかしながら、いわば全体の部分である自身から仕事は完遂されねばならない。これには時間がかかる。かなりゆっくりしか進まない。だから、結果や効果を求めるというアストラル的な欲望に屈するのではなく、揺るがず、地味に、地道に、着実に、日々、おのれという暴れ者に対し、リズムをしつけてもらいたい。これを普通の人は無意識に瞑想で行っているが、やがて想念や頭の世界からは自由になり、自在に魂意識へ入れるようになり、問題はなくなり、問題を抱える人とは無縁になり、外側の人間がどうであれ、内なる仕事だけが大切になるだろう。

目次