リズムの法則

高所の沈黙へと入る能力が必要である。マインドの鎮静化はリズムの法則によってもたらされる。もし、あなたが多くの方向に揺れ動き、あらゆる方向からの想念を感知するならば、この法則があなたに作用することはできない。そのため、平衡を達成できるようになる前に、バランスと安定を取り戻さなければならない。波動の法則と原子質料の研究は密接に絡み合っている。これらの原子とその活動と反応と相互作用についてもっと多くのことを知ったとき、人々は波動の法則とリズムの法則に同調し、科学的に自らの諸体を統御するようになるだろう。

アリス・ベイリー 「ホワイトマジック 上」 p.89

人類の瞑想は、しばしば「高所の沈黙」を目指しているが、その動機や動力はアストラル的なリズムであり、そのリズムへの同調でしかないことに気づいている者は少ない。それは美徳を悪徳で体現しようと試みるようなものである。瞑想の基礎は、高位の波動を低位の波動に課すことだが、低位のリズムが自らの生の主であるならば、「リズムの法則」は理解されないままになる。われわれは動かされているだけであり、その「動」の過程に無知なまま、その結果である自我意識に自らを閉じ込めている。われわれは高所にいながら、転落を生きている。

大部分の人々は情緒と欲求の界層から発せられるフォースと波動に反応している。……このエネルギーは、統御する魂によって意識的に操作されるか、魂とは無関係に三界の物質に備わっている固有のフォースによって活動へと駆り立てられるかのいずれかである。後者の場合、その人は自身の形態エネルギーとすべての顕現の物質様相の犠牲者である。もう一方の場合は、自身の運命の知的な支配者、統率者であり、マインドの衝撃力と魂の集中した注目によって、低位エネルギーを形態と活動へと向けているのである。

ホワイトマジック 上 p.263

錯覚に振り回されているのは人間の魂であり、一なる普遍的な魂ではない。錯覚が取り払われ出したとき、これらの合一が起こり、大なり小なり「高所の沈黙」に入ることが可能になるが、それは人間の魂が、三界のフォースとの同一化ではなく、普遍的な魂のフォースとの同一化を習得し、魂に対して肉体とアストラル体とメンタル体が整列し、それが維持されたときに可能になるものである。われわれは、低位の波動に生き、低位のリズムに動かされている。そうではなく、瞑想を通し、高位の波動を引き入れ、その高位のリズムをわれわれ低位のリズムに上から賦課する必要がある。この意識的な作業が、われわれの段階における科学的な瞑想であり統御の方法である。しかしながら、問題は「高位」のものとの接触までに時間がかかることである。それには正しい瞑想が必要であり、間違った波動が識別され排除されている必要がある。

覚えておくべき点は、私たちが魂として機能するために使っている諸体が主としてエネルギーの体であるという点である。これらの諸体は、エネルギー単位、つまり、絶えざる流動状態にある原子で構成されており、同様の性質を帯びた環境の中にその位置を占めている。これらのエネルギー体において陽の核の役割を果たし、現在のところは多くの場合、相対的に静止状態にあるのが魂である。それはこれまでのところ、その鞘に対してはほとんど影響力を揮っておらず、それらと同一化し、そうすることで魂本来の生命を一時的に無力化している。

ホワイトマジック 上 p.246

われわれは、周囲の、つまり三界のフォースと同一化して生きており、それによって自我意識を養い、魂意識を忘れている。「魂本来の生命は一時的に無力化」されている。この場合、自我意識に苦痛を感じることができないため、分離した自我で生きることが普通であるという感覚に陥る。そのため、自我の欲望から、霊的な「高所」を求めるという本質的に矛盾でしかない行為に夢中になり、それが瞑想であると信じられ、成果が得られないと嘆くことになる。高位の波動を、低位の波動で生きつつ見い出すことはできない。そのために瞑想がある。瞑想は、高位のものと接触させ、彼のリズムを自身に習得させる。どの波長に合わせ、どの波動に生きればよいか、事の善悪を霊的に教えるものである。

魂に働きかけることによって、進化の真の技術が進展する。というのは、形態の、そして形態内の発達を引き起こすのは、すべての自然王国の形態に内在する魂だからである。したがって、主要な目標は、魂を認識し、魂意識を培い、魂として生活し働くことであると言っておきたい。自らの道具を意図的に用いることができるようになるまでは、マインドを訓練し、顕現を支配する法則を学び、私たちがいま「高位」という言葉で言及しているものすべてを包含することを学びなさいと忠告しておいたほうがよいであろう。

ホワイトマジック 上 p.203

引用した文献は西洋人に向けられたものであるため、「魂(Soul)」という用語を一時的に使用してあるが、それは概念でしかない。魂という言葉やそれがもたらす想像と、実際の魂は全く違うのだということを、われわれは内に見出さねばならない。それは名を持たないし、われわれの世界と関係しておらず、われわれの世界の知識さえない。彼と融合した者がしばしば白痴のようになるのはそのためである。彼は話さず、何も知らず、感情や喜怒哀楽と関係していない。つまり、何も持っていない。完全に純粋な状態である。この「高所」は、全く難しいものではないことを説明するために、このような文章を書いている。つまり、読んで理解に近づいたものは、実践されねばならない。日常で忘れないでもらいたい。すぐ自我に戻るのであれば、このリズムの法則という簡単な作業によって高所へ引き戻すことが不可能になる。もちろん、ずっと集中の緊張状態を維持することはできないため、可能なかぎりである。明らかなのは、瞑想前、瞑想中、瞑想中の最高点、瞑想後、いずれも意識が少しは違うことをわれわれは認識できるということである。何が作用したのか。高位の波動である。瞑想することで、魂がわれわれに注目を向け、上からリズムを課し、低位のリズムをより高位に安定させたのである。こうして、幸福感だとか、喜びだとか、平和や静けさといった、日常ならざる神聖をおのがうちに感じられるようになり、やがてそれが自身になるという逆転現象が起こる。これは自然現象であり、それまでが不自然だったことが理解される。この自然が法則であることが知られる。すると、法則にそのまましたがって生きることが可能になるだろう。これが「明け渡し」の意味するところのものである。ただ、自我は彼に委ね、彼になり、彼として科学的に物質に働きかけるようになる。自身の内部でそれらを完了させたとき、普遍的な意識に参入し、自分や自分のための瞑想や自分のための生活はなくなる。唯一なる生命という法則が目指すところのものが新たな欲望になる。この聖なる欲望に従うことが、われわれにおける最高の奉仕である。

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