動力

動物は、動く物と読むことができる。しかし、物自体では動かない。死体は、生きていたときは動いたが、死んだあとは動かない。物を動かす力を動力とも言う。この力はエネルギーである。人体を動かしている動力がある。人間を動かしているエネルギーがある。このことを本当に知るならば、「私」という発想は不可能である。主体的な行為者である私という想像に甘んじることは不可能である。動力が、物を動かしている。この動力を知り、自我を動かしている低位の動力ではなく、高位の動力であるエネルギーに諸体の波長が合うならば、それまでの自我はなくなる。「私」がなくなるならば、「私のもの」もなくなる。これは自我意識のときは理屈だが、瞑想を続けるならば、つまり瞑想を続けさせる動力が流れ来るならば、やがて動力の主である内なる王が、なにもかもを上書きするだろう。消しゴムで消すようなものである。しかし消したあとに残るのは真っ白ではなく無色である。それは観照であるかもしれないが、行為や体験ではない。唯一なる偉大な力があり、それが多様な形態を通し、多様な表現をさせ、その力である意志が目指すところのものへといわば向かっている。この力を内に知るとき、自力や自己努力といった重荷からも自由になるだろう。運命を生き、かつ切り拓くべき自分という責任から解放されるだろう。だから何も心配することはない。

心配や恐怖のない意識に自由に入れるようになってもらいたいと願う力がこのような文章を書かせているが、それはこのような文章を読んでいる個人のためではない。「自分」や「私」の欲望がなくなるとき、人間という動力の伝導体の機能や欲望は、動力の意志の純粋な道具としての正当な地位におさまる。神聖な動力や意志もまた欲望だが、人間の欲望とは何ら関係がない。それはいたって無欲である。具体的に言えば、このエネルギーが三界のフォースに支配されることはない。純粋な動力は、不純な動力より強い。自我意識は、後者の動力に動かされているときの意識状態である。純粋な動力の経路に人間がなるためには、人間を構成している物質が、それに相応しい等級にまで高められている必要がある。この作用を円滑に行わせる手段が瞑想である。私はしたがって瞑想という言葉より治療という言葉を使いたい。治療がうまくいくならば、やがて手術が可能になる。手術に耐えうるほどにまで人間の、つまり諸体の構成物質は高められる。

われわれは、力は、こうして実際は物質に携わっているのである。純粋な動力が、その純粋さに抗おうとする動力に働きかけている。不純な動力は、純粋な動力が通いうる物質よりも低い等級の物質を通して働いている。われわれの行為は、動力の結果だが、誰も動力には注目していない。行為させる力ではなく、行為が重要だということになっている。殺人させた力よりも、殺人という表現を強いられた人という物体を罰することに夢中になっている。戦争は出来事だが、出来事を引き起こしている意図的な力があることを忘れている。目に見えるものだけに惑わされるとき、分離や非難といった的はずれなエネルギーの浪費がわれわれを支配する。不純な動力に対する力がわれわれには必要である。つまり、われわれを通して流れる力が純粋な力に変わらねばならない。そのためには、自分という個別の感覚からは自由でなければならない。

明日、殺人者に判決を下す立場にあるという質問が来ていた。知れば知るほど裁かなくなるという言葉を、殺人者にも適用すべきなのかという質問である。自我に対して答えるならば、殺人者を罰することは無意味だが、秩序を保つために、不純な動力の犠牲になっている肉体を放置することはできない。彼には教育が必要だが、人類にはそのようなシステムはまだない。この問題は個人の能力を超えており、悩んだり罪悪感を覚える時間を、自身という動力の経路体を通して動力を探求するほうへと回す必要がある。つまり、罪悪感を覚えさせようとする力や、間違った判断による罪や罰への恐怖感なども含めて、自身を動揺させたり、影響を与えようとしてくる動力をコントロールできるようになることが先である。このとき、行為や出来事の背後に潜む目に見えない力に対する理解が得られる。これを、自身や人体といった小宇宙にて実験し終えたならば、それを外部に適用する能力を開発し、不純な動力や、それらの力が使用している物質に働きかける実験を開始し、すでに起きたことではなく、引き起こす力への影響力を持てるようになるべきである。より純粋な動力は、より不純な動力よりも強い。このことを覚えておき、力に対する力を、自身の純粋さを通して獲得すべきである。それは、自我意識が為すものではなく、神聖なる内なる自己が為すものである。自我は、彼という力を知らねばならない。ちょうど今、不純な力がわれわれを乗っ取っているように、神聖な力がわれわれを支配するよう、瞑想で諸体を鍛えねばならない。サマーディとか、何か本に書いてあるような意識は、副次的なものであり、全く目的ではない。何のために肉体などの不純な物質に宿っているのか。そのような物質を自分と見なすことなく、純粋な力の経路にして伝導体となることで、力に対する力というものを知らねばならない。兄弟姉妹や同胞愛は何も人のことを指しているわけではない。迷っている人間がいるということは、迷っている物質で構成されている結果だと言うことができる。これらの物質質料に、霊つまり力は携わっている。

目次