或るメモ

今日も朝起きる。気分が悪い。しばらくすると仕事だ。生計を立てるため、嫌なことを堪えて今日も生きている。いわば、生きるために生きている。これが生なのだろうか。しかしこの生は、死によって、やがて終わることを知っている。ならば、生が終わるまで、死が訪れるまで、生きるために苦しみつづけること、生を堪えつづけること、死ぬまでの時間を潰しつづけること、これが生なのだろうか。それに何の意味があるのだろう。考えてもぼくには分からない。だからこんな生は辞退したいと思っている。放棄してしまいたいと思っている。すると友達が言う。頑張れと。みんな頑張っているのだから、君も頑張れと。なぜ。理由は分からないが、生きていれば良いことがある、だから頑張れといって励まされた。しかし、良いことのためにぼくは生きるのだろうか。それは、悪いことから逃げるために生きるとも言えるだろうか。また、何かを良いと言うことで、別のものが悪いものになるという悪循環に陥るだけだと言えるだろうか。不快から快へ逃れつづけることが生なのだろうか。それが生きる理由なのだろうか。

いつも、このような疑問から逃れられないでいる。ぼくが仮に、恵また環境や”スペック”に生まれついたとしても、おそらくは関係がなく、この疑問からは逃れられないだろう。どんな娯楽や欲望に逃げ道を探しても、この疑問は追いかけてくるだろう。ただ生きているから生きるということはできそうにもない。なんで生きているのか分からなければ、この苦しみにはもう耐えられそうにない。しかし、生きている者が死にたいと思うような生とは何なのだろう。そこで、同じように苦しんでいる仲間たちをぼくは見つけた。彼らは言った。神を信じようと。それで神とは何かと聞いたところ、一人ひとりが違う答え方をするのだった。つまり、各々が自身の神を拝んでいるだけであるように見えた。神は想念のなかにいるのだろうか。想念でしかない信仰が神へ導くのだろうか。仮にそうだとして、その神を見つけた人はいますかと聞いてみた。本音を言うと身近にはいません、しかし私たちの神こそが本物ですと、みなが口を揃えて言うのだった。そして入信するよう強く勧められた。

ぼくは彼らが怖かった。もっと広く意見を知りたいと願い、本屋へ立ち寄ることにした。偉人の本があり、聖人や神のメッセンジャーたちのコーナーが用意されていた。どれを読めばいいのか分からない。どの本も言うことが違う。本は各々の主張でしかないように思われた。それで本屋の人に聞いてみた。どれを読めばいいですか。さあ。立ち読みしている人に聞いてみた。私も探している最中です。これらの本の中から探し当てることで生の答えは見つかるのだろうか。なぜ生きねばならないかが本を通じて理解できるようになるのだろうか。すると、たいへんな読書家でなければならないということになる。そんな生はやっぱり辞退したいと思った。読書家になるために生まれてきたとは考えられなかった。

悩んでいると、世の中には悟った人がいると父に教えられた。父の書棚には、聖人という聖人の本が並んでいる。彼らはたいてい、瞑想やヨーガによって真我を見出したと主張する点であらかた一致しているようである。生の答えは自身の内にあると説いてある。内とはつまり何なのか。瞑想の真似事をしてみた。痛みをこらえて足を組み、集中し、眉間で教えられた形態を思い描き、「内」に答えを見つけようと頑張ったが、ぼくには何も分からなかった。これは、ある種の高い段階の人だけの話だと思った。自分のような普通の者、とりたてて秀でたもののない凡人には、土台無理な難易度に思えた。すると、真剣さが足りないと父に言われた。父はこの道五十年である。たしかにぼくは努力家ではない。もっと瞑想時間を増やしてみようか。脳の苦痛に耐えつつ、一日に何時間もやってみた。しかも、何年も続けてみたが、かえって頭痛に見舞われるようになり、生はさらに苦痛になった。間違った瞑想をしたのだろうか。もう、瞑想なんかやめてしまいたい。それでぼくは遊んだ。しかし遊んでも、またしばらくすると瞑想している自分がいるのだった。というのも、わずかながら、瞑想に効果を感じたからである。

何度か、稀に、瞑想をしていると幸福感がやってきたことがあった。あれは不思議な体験だったが、もう一度その幸福を味わいたいと思いつつ、失敗して苦しむ日々を過ごしている。しかし、あの幸福感は「嘘」だとは思えない。あの意識は偶然だったかもしれないが、「錯覚」だったとは思えない。ときどき、こうして兆しや痕跡をぼくは発見した。たいていの瞑想では何も起こらない。それで葛藤したり雑念に振り回される自分にめげている。ところが最近分かったことがある。幸福感だけが兆しではなく、この葛藤、この苦悩もまた兆しにして痕跡だったのである。幸福なとき内なる者は言う。「瞑想者よ、その波長は正しい」。失敗して苦しんでいるときに内なる者は言う。「瞑想者よ、その波長は間違いを教えている」。そして成功したときの波長をぼくは探そうとするのだが内なる者は言う。「瞑想者よ、正しい波長を探してはならない。間違いであれ、現在の波長を見た方がいい。それが覆い隠しているだけである。この意味で、正しい波動も、間違った波動も、それを見るならば扉になる。それらはいずれも痕跡である。快不快に惑わされず、どちらも等しく見てはどうだろうか」。

ぼくはこうして「等しさ」を学んだように思った。あれがよくて、これはだめだ、とは徐々に思えなくなった。ただ感じられるものを、ただこうして在るものを、ただ等しく見るようになった。なぜなら、何であれ本来、良いも悪いもないからである。それを決めていたのはぼくだった。その好き嫌いがぼくを悩ませていたことを理解した。それで、現実や現在に対して良い悪いの決めつけを行うことに関心が失せてきた。そんなことより、いまある感覚と一緒にいること、いることで「現実」を見るようになった。もう「希望」や「探求」のための瞑想ではなくなっていた。ぼくがこれを理解して、何に対しても価値観や興味がないとき、ぼくはただ瞑想しているだけなのだが、するとあちらから幸福はやってきた。というより、ぼくという騒ぎが静かなとき、そのような幸福は生来のものであることに気がついた。求めなくなったらやってきたのである。ぼくは、ただ好き嫌いに生きていたことを理解した。不快なものから、快であるものへと逃れたいだけだった。

しかし、この幸福感もまた痕跡なのだろうか。もっと先があることがなぜか理解できた。ぼくはこの痕跡が好きで、あまりに心地よいため痕跡に集中することが日常になっていった。こんなことをしているうちに、自由に、至福の意識へ入れるようになってきた。それはいたって自然ななりゆきだった。というのも、それはぼくだった。どうも、以前のぼくの騒がしさがそれを隠していただけのようである。いまぼくは静かで、何でもないさまに満足している。しかしこの充足は、いわば全員の充足を求める意志を持っている。その力が人類のみならず、万物を押し上げようとしているのが理解できる。この力をぼくは生そのものだと感じるのである。この命に生きることで、生は喜びになった。この途方もない流れは愛だった。愛に生きることがぼくを喜ばせた。そして、生が生そのものになった。まじりけはなくなった。疑問もなければ答えもなくなった。ぼくは答えを探していたが、そんなものはなかったし、いらなかった。生は、……

※このメモはここで終わっている。彼は何も話さなくなったため、いま彼は白痴になったと思われている。

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