痕跡

想念をしずめようとしてはならない。それは、しずめた後の霊的な何かを求めているだけである。まず、内的な霊的自己を見つけることが先である。彼の声を聞くため、彼の意図を汲み取るため、彼の示す道を知覚するためには、想念が邪魔をしていることをわれわれは瞑想中に理解する。そのため、耳をそばだてるにあたって、面と向かうにあたって、彼への興味と集中が、自然に妨害するものである想念を抹消するのである。そこには、想念に対するどのようなコントロール意欲もなければ、想念について誰かや書物が言った話に一点の関心すらない。瞑想者は、内なる自己につき従おうとする、いわば霊的本能とも呼ぶべき凝視に入り、その過程で、眼中にもない想念は無くなっているのである。この意味で、想念をしずめるよう自我に教えるならば、それは正しくない。自我と想念は同じであり、自我に想念をしずめるように教えることはただ無意味である。想念やマインドがその活動から自然の凝視へと没入するのは、想念やマインド自体が内なる自己を発見したからである。彼の痕跡の知覚が、彼を覆い隠す想念を自然に黙らせたのである。

人類において、彼を発見した者は多くない。それは、人類がマインドというより、情緒に深く没入しているからである。快楽が、今のところ人類の目標になっている。欲求や恐れ、ないものを埋めようとする飽くなき渇望、この情緒性質への同一化の結果として、瞑想や聖者の話にあらたな快楽や希望を見出す時期がある。この段階で、彼は想念物質を扱うどのような能力も持ち合わせていない。彼には、まず霊的な欲望や真我や進化への道などといった、情緒的な想念自体が妨害になっていることを理解してもらう必要がある。彼が情緒から自由になるとき、情緒がまとわりついていない、純粋な想念の問題に取り込むことができる。情緒から自由なときのみ、内なる自己の痕跡を知覚することができる。人類の問題は、専門用語で言えば、カーマ・マナス(kama manas)であり、マナスではない。カーマがはじめに除去され、次に低位のマナスつまりわれわれのマインドが高位のマナスつまり「彼」の領域に入るのである。

自身を修行者だと思っている自我は、何らかの本や人や教えに感化されている状態から瞑想をはじめる。それらの本や教えは、彼とはまだ関係のない段階の話であり、それが事実だと知るのは彼が瞑想で数年か何十年か失敗した後である。こうならないために、純粋な自我意識と、書物が述べる高次の意識とのあいだの、過渡的な意識段階への教えが現実の人類には必要だと思われる。聖人が主張する意識に近い者は、すでに内なる自己を知っており、彼に従っている。外部のどのような教え、どのような知識とも関与することはなくなっている。あなたと、あなたを描いた絵は違う。実在と、実在に関する話やイメージは違う。後者がなくならないかぎり、覆いは覆いのままであり、隠された宝珠を露わにすることはない。

ならばどうすればよいのかと自我は混乱し恐れる。これをカモと見て、方法を教える人がこの世には多くいる。彼らもまた兄弟だが、道に迷っており、口では霊的なことを語るが、この世のものに価値を置いている最中である。すべての仕事をする神の子らは、それが神の仕事か、この世の仕事かを識別しなければならない。この世のお金のため、この世の仮の体や他の体たちのために情緒から働くならば、それは自身を著しく神の領域から遠ざける。世間が美化している奉仕は、純粋に利己的なものである。親の子に対する愛もまた愛ではなく利己的なものである。自我から行われることは、すべて自我のためのものである。完全な純粋さ、完全な愛、完全な霊的意志からすべてが為されるためには、その主を知り、その主である真の自分と合一しなければならない。その合一は、自我のコントロール下にはない。しばらく自我で瞑想して絶望した者には、多少辛い現実だが、妨害するものはないが、あなた自身があえて妨害しているということを知的に理解してもらう必要がある。そのため、自分がなにかを見て、知らねばならない。頭からではなく。

しかし私は自我ですと言うならば、その私は自我を見ることができないだろう。私が自我であるならば、それでよい。よいが、本当か見てみよう。自我という言葉を使った瞬間に、彼はイメージを見ている。彼を描いた絵の方を見ている。言葉や頭で考えてはならない。違うものを見ていては、本物は見えない。霊的な道はなく、また方法もないことに自我が恐怖するならば、方法を探すために書物を読み漁ったり師から師へと渡り歩くことで自分にないものを埋めようとして逃避するのではなく、恐怖そのものを見ることである。恐怖自体を見ないかぎり、無数の恐怖にずっと次々にさらされ、その解消法や逃避に向かうだけである。今の自分からなぜ逃げるのだろうか。私が自我ならば、私が何らかの恐怖を感じている者ならば、その感覚を見ない理由は何だろうか。その不快な感覚から逃れるために、真我とか悟りとか別の快楽を求めることは、不快と感じている現実からの逃避にちがいない。どの本にも、どの文章や言葉にも、どの師にも、どの頭にも答えはないが、私自身という今ここに存在するものが答えであるという答えに満足できないトリックは何なのだろうか。

いずれ、これを真剣におのれに問わねばならなくなるだろう。もう逃避できなくなるだろう。逃避できる場所がないことが知られるだろう。すると直面するしかなくなる。直面するとは、彼を直接知ることである。彼の痕跡を辿ることによってである。彼は私である。この霊的追跡がはじまるとき、想念はなくなるだろう。何かに集中したいとき、人に話しかけられたら黙ってもらうように、想念の妨害をあなたは許さないだろう。そのときのあなたは純粋な意味で自我ではない。まだ彼でもないが、発見は間近である。しかしどのような欲望もそこにはない。霊的な帰巣本能だけがある。頭や思考は置き去りにされ、人々が直観や純粋理性などの用語で表現しようとしているが決してその全容は知られていない大いなる知性が、そのときのわれわれの導き手である。このようにして、われわれは思考から自由になる技術を習得するだろう。低位のマナスから、高位のマナスに職場を変えるだろう。この直接的な知覚力に至るために、想念はなくなったのであり、直接的な知覚力へ導いたのも彼である。こうして、すべて彼によって起こっていたことを知るだろう。努力や修行はなくなるだろう。自由である。力は彼にある。愛と慈悲がいまや彼にして私である。ここにわれわれは完全を知り、もしくは知ることを超越することで絶対に名づけられない言葉の外の何でもありえないものであるだろう。その痕跡は今そのあなたにあるのだから、今、または五秒後、本物を忘れて日常に戻ることなく、何にも逃げず、自身で在ることで可能なかぎり痕跡を感じ続けてもらいたい。あとはそれを見て辿るだけである。これが集中つまり瞑想(ディヤーナ)と呼ばれているものである。

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