湯治

われわれは学習中でも修行中でもない。治療中である。前者は自我において能動的だが、後者は霊的に受動的である。われわれは治療を受けている患者である。見えないこと、分からないこと、これら無知によって生が崩壊し、縛りつける錯覚から自由になるため、精神やマインドを治療してもらっている最中である。この理解を拒み、自分が瞑想し、自分がおのれを治療しているという錯覚の病気が流行っている。人間の定義に関するブラヴァツキーの言葉に、「動物+神」というものがある。その中間にて、われわれは修行者にして弟子ですと言う。彼において自身の物語は進行中であり、その体験がおそらくは新しく興味深いため、しばらくは役を歩ませるよりほかにない。彼の師が治療を終えた者ならば、弟子は危険に逸脱せずに済み、正しい瞑想を通して治療がうまく進行するだろう。神に近づくだろう。こうして、個人的などの物語にも、どの出来事にも興味がなくなるだろう。わき起こる感情や想念に対しても、である。全的な無関心。既知のなにものとも関係していないという天的な隔離。そして思い込みの激しさに由来する所有や責任からの解放。彼の名や歴史、主張や記憶は、治療中の同胞たちに手を差しのべるとき以外に関与することはなくなり、本質的に彼は「自分」を治癒し終えた存在の中心にとどまるだろう。

われわれは、ぬるま湯に浸かっている。それは心地よいかもしれないが、結局は風邪をひくことになるだろう。火のように暑いお湯を注ぎこまねばならない。やがてぬるま湯は暖かくなるだろう。風邪をひかせ、病気にさせるぬるい波動の湯に浸かるのではなく、もっと熱い湯を、波動をおのれに注ぎ込まねばならない。このようにして自ら浸かっている領域の霊的温度を上げねばならない。真の湯の心地よさ、温かさ、その治癒力を知るだろう。これは人類においても同じであり、一人ひとりが高められ、そのいわば総数が増えることによってのみ、全体の熱が急激に上がる。全員が、より早く高い波動に慣れ親しめるようになる。この放射する熱の焦点にわれわれはならねばならない。自分の物語に没頭していてはならない。抜け出して、暖かさを広めなければならない。なぜなら、愛は一人とて置きざりにできないからである。

自我とは何か。せいぜい低い波動の集まりである。もしくは、その動物的な波動を生きている神である。そのような波動や形態は何ら原理でも実体でもない。いずれもマインドの世界にあり、そこでは思考と思考者は同じである。想念と人は同じである。思考が、自分というものを思いついたにすぎない。この自作自演が明瞭になりますように。このような理解が本物であるとき、思考は自然に思考をやめうるのである。真の湯つまり真我の波動に浸かっているときのみ、この種の知恵と接触でき、錯覚を貫通しうるのである。これを知らないならば、自我で瞑想してしまうだろう。雑念をしずめるように言われるだろう。コントロールする者が誰なのかを知らないのである。高貴なる波動のみが、(一時的に)下賤なる波動を引き上げうる。高い波動を引き入れ、自身である低い波動と交わらせることで、個人という動物的な波動体は引き上げられ、神聖になる。その必然的な結果である意識をサマーディーとか純粋意識などと命名し求める必要は全くない。それは下賤なる波動つまり欲望が想像させているものでしかない。真我は意識とは関係がない。意識は変化するが、変化させる源は変化しない。

波動を引き上げること。その高い波動を一定期間、維持すること。これが基本である。覚えておくことはこれだけだと言ってもよいだろう。波動の自我への逆戻りを防ぐため、定期的な瞑想が最初は推奨される。高い波動に生きることに慣れてきたならば、維持が次の目標である。低俗な行為を慎み、他人や出来事に良い悪いの評価をつけず、日常で低い波動に感染することを防止し、世の暗闇や錯覚に飲まれそうになったらすぐに目を瞑り、高い波動にふたたび浸かる。この高み、この山に、やがて小さな保養所を見つけるだろう。そこは世間から隔離されており、安全である。火山であり、いたるところに極上の温泉がある。ここでの湯治を続けることで、別の温泉とつながるようになり、いわば意識が拡大する。これらは実践されるとき、真実が確かめられるだろう。どこに師を求めるのか。師は我らが内に蜘蛛の糸を垂らす。この糸は高貴なる波動であり、みなで活用するためのものである。糸を辿る順番は違うかもしれないが、上ったならば糸をより強化し、より多くが上れるよう助力せねばならない。動物の波動に生きるのか、神の波動に生きるのか。自身の進歩のため、結果のために瞑想するなら、動物の波動で瞑想しているのである。このような人の辿る糸はすぐぶち切れる。全体のため、唯一なるもののために瞑想していることを知り、個人という錯覚から自由な波動にわれわれは今すぐ生きねばならない。この波動と糸は頭部に降りてくる。あとはそれと交わり、その意識に浸かることで、その新生意識が名づけえぬものを開示するだろう。この方が統治者である。

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