無所有

今日は瞑想できない、深い意識に入れないと個人は言う。大なり小なりの周期の法則は、外的人間に適用されるものであり、したがって乗り越えられる。問題があるとするならば、その日その日の瞑想の具合に左右される個人との同一化である。個人は、ただ記憶に生きている。あのときの意識に入れないと言うが、記憶が理想になり、現実が不平の対象になるならば、その理想が邪魔して現実は見えなくなる。こういうときは、まず瞑想できなくていいことを思い出す必要がある。良い瞑想を求めるのは自我であり、われわれは自我ではなく、またその欲求に騙される愚か者でもない。どんな理想も記憶も所有するに値しない。それらが実在と関係ないことが理解されるなら、余計な重荷はこぼれ落ちていくだろう。

この世は、何かを求める者だらけである。瞑想に頼ろうとする弱い人につけこむ商売の広告を掲載させてほしいと問い合わせをしてくる者すらいる。求める価値のあるものは、霊的な観念も含め、ひとつもない。知恵ある者は、知識なき者である。例えば、この世の学問は知識に関係しており、人を傲慢な盲にしてしまう。どんなに知識があり、頭が切れようとも、肉体が死ねば終わりである。次は学問が苦手な諸体で生まれ、かつて自分が馬鹿にした人の気持ちを味わう生涯が必要になるかもしれない。本当に価値があるものは何なのか。世論、世情、風潮、常識、あるいは同調圧力、これらの何と真我と関係なきことか。所有することは悲しみである。逃避からではなく、また獲得のためでもなく、それが真理や実在を見えなくさせる錯覚という知恵からものごとを見通しうるならば、われわれは自由である。何も背負わないのだから、この世のどんな力も暖簾に腕押しとなる。何とも関わらないし、何をも許すし、何をも所有しないから、何かと衝突しようがなくなる。

何が自分にとって現実なのか。つまり、現実感をもたせているのは自分にとって何なのか。こういうものを興味深く見れるならば成長は早い。なぜ興味深いのか。それは見られるものがわれわれに知恵を授け、それによって見られたものは溶解し、真実の姿を見せるからである。どこに見られるものとの分離や壁があっただろうか。見えるものが現実という信念さえ所有しなくなるなるだろう。われわれが目をつむるのは、象徴である。見なくていいことの象徴である。見ると、見られるがあるならば、それは対立を生み出し苦痛へ導くが、内なる真我はそういうものから自由である。ゆえに喜びにあふれている。この状態や意識に入ることを求めても、無理である。なぜ求める人や、その欲求という力のほうを見ないのだろうか。これらが理解されたとき、出来事は関係なくなる。出来事が喚起する想念や情緒が自分に影響を与えるかどうかである。その都度、現実的に思えるその影響力を意識的に知覚し、見ることができるかである。専門的に言えば、フォースをわれわれは捉えて扱うだけであり、影響を及ぼしてくる力を統御するだけである。やがて自動的なものになるだろう。

このような生き方は、普通は理解されない。出来事を変えるために人は生きるべきだと押しつけてくるから。良い学校へ行きなさいと親は言う。なぜ。ろくな就職もできず、金も力もなく困ることになると教えられる。しかし、それらが何の影響もわたしに及ぼさないなら、そんな防衛に生きる必要がないのだが、これを理解してもらうのは無理である。賢い子供は、幼くして、人に理解してもらう必要がないことを学ぶ。独自の道を歩むようになる。人々の教える道では迷ってしまうから。こうして、人々の現実に生きなくなる。大人も同じだが、子供と違ってその生涯で形成してきた想念形態が大きく強いために、素直さや純粋さを取り戻すのは難しい。ただ、内なる存在に気づき、それによって破壊されるしか方法はない。魂と接触すると言うが、われわれは魂である。接触ではなく、感受性や知覚能力と言ったほうが良いだろう。何であれ、求めてはならない。求めるものがあることに気づけるほど無所有かどうかである。何か現実感が伴うならば、疑ってもらいたい。それを見てもらいたい。見たら終わりであることをわれわれは深いところで知っており、延々と逃避することで自我を養おうとするが、つねにそれが現実なのか、わたしにとって本当に力を及ぼすものか、ただ見られたとき、物語は存続できないのである。

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