花のように生きる

教師が、真我の認識のためにマインドの統御を教えたならば、われわれは思考が生じることに何らかの方法で対処しようとする。こういうことが瞑想だと一般には言われているが、内在の一者と融合するにおいて、何かが駄目だとか、良くないとか、逆にどうあるべきだとか、そのような判断をさせる知識や価値観からは自由でなければならない。われわれは瞑想中、思考を雑念といって嫌うが、それは頭の中の理想と現在の自分が違うという感覚や想念を前提としている。その一方で、教師方は、すでにわれわれは真我であると教えている。これは理論上のことだろうか。われわれには適用されない話、高度に進化した者のみの言葉だろうか。森羅万象、花であれ岩であれ、生きている形態をまとうものは、それは物質に命というエネルギーが流れてこそである。エネルギーが多様なあらわれをし、それは特定の波動を持ち、ゆえに目に見えたり見えなかったり、いずれにせよ一者の設計図の通りの形態がこの現象世界に顕現している。これらはいずれも命と、それが必然的にそうである意志の結果である。人間ならば肉体であり特定の顔かたちである。ひとつとて同じ顔はない。同じ表現はない。しかし、流れている命、それらを動かしているエネルギーはひとつの至高の名づけえぬ力である。一般的には命、宗教では神仏、科学ではエネルギー、それらが、まさにそれらであることを自然と呼ぶ。しかし、この分割しえぬ命やエネルギーや神を独自に所有しているという錯覚の重荷に悩まされているのが人間である。自分が行動していると考えるのは、自分を肉体と思っているからである。その出発点の「自分」や「私」からは神は見えないし感じられない。「自分」という不自然はどこまでいっても自然を真似できない。この知恵が本物ならば、不自然を手放したり、架空の出発点である「私」に焦点を合わせるのをやめたりすることで、われわれは神である。われわれは自然である。この状態は通常の人間と何が違うのか。何の抵抗もないのである。エネルギーの流れに逆らう者がいないのである。逆らうとき、エネルギーとフォースだったり、霊と物質だったり、本来はひとつであるものが喧嘩するようになる。これをわれわれは苦しみと呼んでいる。だから、抵抗の結果が自我なのだと知るとき、自我意識はとても苦しいのである。瞑想で自然という理を学ぶならば、命という原理に背かないことをただ学ぶのである。不自然な出発点としての「私」からの言葉は何もないのである。どんな知識も、記憶も、好き嫌いや良い悪いの価値観も、そして感情も、それは個人的なものでしかない。間違った出発点の結果にわれわれは動かされているのである。これは、本来ないものが「私」をあるものと錯覚し、その「私」からすべてを見て、考え、判断しつづけている状態である。動かされているかぎり、自動人形のような状態だが、本人は「自分」の意志や行動だと考えている。これが本当の意味での諸悪の根源である。

そこで、雑念をなんとかしようとしている瞑想者を考えてみてほしい。動かしているのは動機であり、知識であり、強迫観念であり、理想であり、何か別の状態でなければならないという変化なるものの獲得への抵抗である。われわれは、このようなものと一切関わる必要がない。かといって、全く批判もない。思考があるならば、その思考を見て、「どうぞ」である。何の敵意もありはしない。雑念などと呼んで嫌うことなく、生じる思考に対してその存在への自覚的な許しがあり、思考が何らかの条件づけのもとに表現したがっている自由を認める慈悲と愛がそこにはある。愛に見つめられているとき、思考は溶解する。思考を所有したり、拒絶したり、何であれ抵抗するならば、それは敵になるだろう。敵味方という分離は錯覚である。思考を悪と見なす思考者である私とは誰なのか。いずれも思考である。だから思考同士が勝手に衝突しつづけているのが人間の状態である。この苦しみを感じられるようになったとき、自然に対立は一元へと解消されるようになるだろう。その苦しみ自体が、すべてを教えてくれる。なんで苦しいのか。なにが苦しみの原因になっているのか。苦しみを見たら苦しみそのものが教えてくれるのである。見ることは、即知恵であり、知恵は即偽りの解消である。錯覚からの目覚めである。何をも許し、何に対しても好き嫌いを主張しないならば、間違った出発点は存在できない。どのような対立もなくなる。そのときの意識はとても静かである。根底には限りのない愛がある。対立がないとは、一元を多元に解釈させるどのような力も、われわれに影響を与えることができないということである。対立がないならば愛しかない。それは静かだが真に無邪気である。それは、それ自体、それ自身であることが喜びであり至福である。

こういうことが体験として事実になるためには、教師は自分でなければならない。それは自我という錯覚上の自分ではない。本当の自分とは、自我ではなく真我であるならば、なぜ知り得ないことがあるだろうか。それが必要なことならば、答えは何であれ内に見ることができる。その学びは時間をかけて行うものではなく、瞬時のものである。知識は分かったふりだが、知恵は分かった瞬間にそれができるようにさせる。前にも書いたが、われわれは知っているのである。本を読むのもいいし、教師の指導を受けたり、地上のどこかに答えを探しに行ってもいいが、何をしても、どこへ行っても、そこに在るのは自分である。真の自分が在る。この真我からの逃避が自我の思いと言葉と行いである。この錯覚への支持を打ち消し、真我に引き戻す作用には、いずれは錯覚となるがそのときは現実である苦しみや痛みが伴う。それらを嫌ってはならない。それらは真我の言葉であり教えである。これを知っているならば、どうして苦痛から逃れようとしうるだろうか。どうしてこの現在の自分を見ないまま何か別のものを求めることができるだろうか。自我からすれば、あちらから答えを教えようとしているのに、真理や真我から目をそむけたままでいたいと思わせる力にわざわざ屈服しにいっているのである。やがて内なる至福が勝るようになり、偽りに専心しようとするどのような試みも不可能になるだろう。なぜなら、真我以外はすべて苦痛だからである。一でないならば分離や対立があり、そこから無限に欲望や恐れを燃料とした個人の物語が派生するからである。この夢幻から醒めることが悟りならば、その悟りを妨げている何かに引きつけられたり、支持したり、所有したり、欲したり、恐れたりしているからにすぎない。こうして、頭の中のものや、感情・情緒のほうが現実的になってしまったのである。秘教徒が、アストラル体やメンタル体を統御するのは、イニシエーションを受けるためでも悟るためでもない。単に間違っているからである。それは明らかに不自然であり、なんで不自然なのかが内なる知恵として分かっているからである。得るための統御ではなく、違うから、関係ないから所有しなくなるだけのことである。

批判するわけではないが、なぜ人は質問するのだろう。なんと残念なことか。頼るたびに、真我を否定している。自我として、特定の名前や形のある者として、知らない者として、連綿と続いてきた想像上の決めつけを手放せないでいる。それを捨ててもいいことを知ってもらいたい。間違いを抑制することはできないし、どんな行為であれ、出発点の行為者が間違った自分ならば、ただの抵抗であり苦痛である。この意味で、瞑想とは絶対に何もしないことである。想念があるならば、あればいいし、あっていい。そこに許しがないから、想念の対立が続くのである。なんでも、許せないものは許していい。すると対立しようにもできないため、命である愛に気づくはずである。対立や衝突がないなら、われわれの神は愛である。流れている神に抗うことなかれ。動かしている神に挑むことなかれ。今日の記事は、誰かが読んだある本が置かれており、その題名が「花のように生きる」だったからである。それはどういう意味なのか。一切の抵抗を知らない自然と無垢のことである。外側の結果の肉や形態を自分と主張するならば、そこから派生するどの思考も言葉も行為も不自然である。花ではない。人間は本当に花より賢いのだろうか。ならばなぜ、花のように生きることを学ぼうとしているのだろうか。

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