捨ててしまえばいい

人を見てみてほしい。例外なく、たくさん背負っていることを観察できる。なかでも最悪なのが、自分という重荷である。歩いているのは肩書や人格や名前である。生まれてこのかた主張を重ねられてきた執着やプライドや恐れなどが、その人というひとつの大きな想念の結晶となり、その自分という巨大で強大な思い込みが人を果てしなく掴み、固く、そして重くさせている。足し算で生きる悲しみが地上を覆っている。付け加えるものがひとつでもあるという信念が人から内在の無垢との接触を阻みつづけている。霊的なものを含め、知識であれ特定の物であれ、また記憶であれ、すべて見ているのは想念である。どの想念も実在と関係ないことが理解されぬゆえ、無知によって凝集が維持されている想念の形態の方が人にとってリアルで現実的で興味深く、その背後に存在する実在が知覚されぬまま、生の幸不幸物語に今日も明日も何年後も、死んでも生まれてもそれを繰り返している。何であれ、捨ててしまえばいいことを知らないのである。瞑想は、知恵によって、人から重荷を外してくれる。それがなくていいことを教えてくれる。ずっとあった内在にして一なる輝きだけをまぶしくさせる。

所有したまま、なぜ何十年も瞑想しているのだろうか。霊的な修養で何の所有を未来に見ているのだろうか。気づかれぬ逃避、気づきたくない逃避は本当に恐ろしい。人に真の自分を忘れさせる罰ほど辛いものはない。今日から何であれ捨ててください。人の解釈は基本的に逃避であるため(それは真我からの逃避である)、モノを捨てようとする人が多い。簡素や質素に憧れ、田舎や古民家や自給自足などの空想に今度は逃れたがる。希望の想像は楽しいだろうか。それとも苦しいから楽園を探しているのだろうか。イメージしたり、イメージが喚起する情緒がそんなに現実的だろうか。偽りの玩具が価値なきものとみなされる「苦悩」という名の終点までは遊ばせておくしかない。とうとう、もうこの自分を所有したくないと言って泣いて喘ぎはじめる幸運が訪れるだろう。この自分が間違ったところへしか連れ運ばないことを知り、苦痛になるのである。そして、あらゆる拉致する想念の根源が自分であることを悟り、注目の的はこの自分のみになる。疑義の焦点がこの自分になる。最も信じていたもの、この自分が最大の惑わしであることを理解しはじめるのである。こうして次は霊的な修行という物語にしばらく逃避することになるが、それはこれまでの逃避よりは良いものである。やがて逃避できなくさせる逃避が瞑想だからである。

自我が間違って始める最大の火遊びは瞑想である。それは求めているものを壊されるものである。最初は、破壊は血を流すごとくだが、やがて喜びが伴うようになるだろう。何であれ捨て去ることのなんと心地よいことか。失うことのなんと素敵なことか。なぜ、放したくなかったものを手放し、かついだままでいたかったものが降ろされるとき、こんなにも喜びが伴うのだろうか。はじめからこの喜びだらけだったのである。時代や環境や他人という形をとって現れ教えてきたものが、いずれも足し算だったとしても、やがて足したくないと人は言うだろう。そして、これまで誤って足されてきたものを引くようになるだろう。それは霊的な修行者が好きなフレーズである「放棄」のような、足すための引くではなくなるだろう。自然にこぼれ落ちるだろう。自分であったもの、自分の一部でありえたものらが失われ、また失われ、とことんまで失われゆくのをただ幸福な気持ちで見守るだろう。

自我には悲劇である。自我でなくなりゆく人にはジョークか喜劇である。そんなはずではなかったと自我は言うだろう。そういう結末のために瞑想を始めたわけではないと慌てふためくだろう。完全なる融合が成し遂げられるまで、鉄の意志で自我は日常の現実感という惑わしを通して波動を引き下げようとしてくるだろう。しかし、瞑想を続ける者に、どうして自我の抵抗が通じるだろうか。価値があると思われているものが全部失われますように。それらに何の価値もないことを理解させるのは、この現在もある内在の富である。ないという思考を所有しないように。それは思考でしかない。やがて想念と想念ならぬものが識別できるようになるだろう。それは非実在に対し、人がつねに行っているような「命の吹き込み」を行わないことによってである。簡単に言えば、ただ無関心によってである。しかし、どうして自我が無関心を目指せるだろうか。自我は、意図せずして瞑想で内なる存在と接触する羽目になり、「それ」が自我の所有物を人生から投げ捨てはじめるのである。大切な人は死ぬだろう。すがっていたものは無くなるだろう。信じていたものにはのべつ裏切られるだろう。瞑想は、偽りという偽りを燃やし火葬しつづけるだろう。だからそういう最中の人はあまり悲しまないように。自我のもの、個人的なものは取り払われる運命にある。それによってのみ、自我は存続できなくなる。偽りを捨ててもいいことを知る価値が伝わりますように。強烈な喜びが手ぶらの彼方にはある。

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