焦点化

眠りから覚めると、人は何かを訴える。今日は不調だ。どうも胸焼けだ。嫌な事を思い出して学校や職場に行きたくない。あるいは良いことが期待されるので気分がいい。……つまり、起きてすぐ手遅れである。胸焼けの人を例にとってみよう。実際、そのように言う者が先日いた。それで、胸焼けにいつ気づいたのかと聞いた。起きてすぐだと言う。じゃあその前は。夢を見ていた。そのとき胸焼けはあったのか。なかった。ならば「あなた」は、現実のときだけ胸焼けで、夢のときは胸焼けにならないのか。たぶん、夢のときは胸焼けに気づかなかっただけだと彼は言う。それはつまり、胸焼けだが、胸焼けでなくても良い意識状態があるということを暗に認めたのだろうか。まあ、そういう言い方をするならそうだろうと言う。

夢の中でも、この現実世界でも、マインドは活動している。マインドは活動しているが、夢のときは胸焼けがなく、起きた瞬間から胸焼けになる。何が違うのだろうか。ここでは、夢の意識状態を解剖するのではなく、起きた瞬間に肉体の不調和が知覚される点に着目する。なぜなら、ここは誰もが認めることだからである。さて、胸焼けという現象は肉体のものである。起きた瞬間、「私は肉体であり、肉体の現象は私のものである」という言明がなされている。その後、その思い込みを認めた人として、胸焼けのための薬を飲んだり、食べ過ぎを後悔したり、不快な気分で一日の始まりを台無しにする。

夢のときは夢の内容に幸不幸を覚え、起きたらこの世界の現象に左右される。何に焦点化し、何と同一化するかで意識や知覚が変わることが理解されないだろうか。あるときは存在し、別のときは存在しないようなものは、実在ではない。実在とはどんなときも永遠に常に在るものである。それ以外は存在していない。次のことを知ってもらいたい。目覚めた状態で、かつ肉体で活動していようと、肉体の現象が消え去る意識状態を保持できると。それが目指すべき瞑想である。座って目をつむることが瞑想ではない。一日中、内なる存在に焦点化し続けることが、われわれの瞑想である。はやく、チャンネルを切り替えるように、簡単に自我意識とそれを打ち消す意識を行き来できるようになってもらいたい。すると次のようになるだろう。朝起きて胸焼けを知覚すると同時に、自分が誤った自分に焦点化していることを知り、ただちに内在者へ意識を向ける。どこに胸焼けなど存在できようか。内なる平和、内なる喜び、内なる至福、そして愛だけが存在するではないだろうか。

少なくとも、マインドが活動した状態、つまりメンタル体を統御できていなくても、われわれが魂とかコーザル体とか呼ぶ、人間と崇高なる真我の間に立つ者、何万回か何千万回か分からないが、長い長い期間「私」であった者に大なり小なり意識を引き戻すことはできる。その融合の度合いに比例し、われわれは粗雑な物質をいくらか超越できることを理解するだろう。この魂との融合が完全になったとき、三界や人間は超越され、われわれは真我であるだろう。なぜなら、真我(霊)の顕現のための器は魂だからである。そして、魂の顕現のための器は肉体とアストル体とメンタル体という三重の粗雑な物質である。しかし、質問が来ていたから付け加えるが、「物質は顕現の最下位における霊であり、霊はその最高位における物質である(シークレット・ドクトリン)」。七つの界層図を見てもらいたい。われわれの太陽系の七つの界層は、宇宙物質界の七つの亜界でしかない。物質の定義は、意識の進化に応じて変わるものである。普通の人は、思考や情緒が物質であることすら分からない。科学は、暗黒物質(dark matter)の名で仮説を立て、物質界の第四エーテル亜界を模索している段階である。

話を戻そう。意識をどこに焦点化させているかの違いである。われわれが焦点化しているものは何の価値もない非実在である。瞑想をただ無欲に続けてほしい。魂の波動で頭部が満たされるようになり、やがて魂と直接接触できるようになるだろう。これは特別なレベルではない。真我実現と人々が呼んでいる段階のはるか後方の段階である。こんなことも知らずして、はるか先の事を達成しようと欲望でもがいている人のなんと多いことか。魂との接触は、秘教徒が定義している第一イニシエーションと関係しているが、真我実現は第三イニシエーションと関係している。そのため、肉体(第一)や情緒や欲望(第二)にまつわる事柄に惹きつけられたまま、その延長で霊的な何か(第三)を求めているのである。それは求められなくても存在している。違うものを求めていることにはやく気づきますように。われわれが求めているものは、われわれの欲望の産物でしかない。こういう理解が知識ではなく実際のものになったとき、われわれが執着しているいずれのものにも、興味や関心はなくなるだろう。想像していたようなものはすべて否定されるだろう。何もかもを邪魔していたのは、ほかならぬその焦点化している自分である。その自分が罠ならば、その自分を見よというのが古来から変わらぬ教えである。その「私」の奥に、焦点化すべき魂がある。これを達成させるのは、「私」はどうも「それ」を知っているようだ、という確信である。知らないふりをさせているのは誰なのか。何の影響力なのか。虚しき自作自演がどうか見破られますように。

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