親友

子供の宿題を親が代わりにやることはできない。永遠に何もできないままになる。彼は年をとるだろうが何の役にも立たない。一時的には辛いが、自らの問題は自ら解き明かしてこそ価値があるという事実に徹し、他人に頼ることを慎む価値を採掘せねばならない。最初の教えは、すべての答えが我が内にあるということだが、これを信じなければならない。そのつど答えを引き出し、我知恵なりと確信せねばならない。答えが分からぬ場合は、それがなぜなのかを我に見出さねばならない。こうしてわれわれは汝自身を知り、それまでの自身から解放されるだろう。

だから、苦しんでいる人の気持はよく分かるが、そこを乗り越えられる強きおのれになってもらいたい。安易な助けは全体のためにならない。なぜ苦しみがあるのか。しかし苦しみはまごうことなき真の友である。自分の事を第一に考える都合のいい友ではなく、相手の事のみを想う愛と慈悲の双子である。苦しみは誤解されており、それゆえ忌避されている。真の友が嫌な事をするだろうか。間違った道へ導こうとするだろうか。道端で乞食を見ても、それがキリストだと気づかない人のようなものである。よく見てみるといい。肉眼の目ではなく、また知識や価値観といった人格の曇りを通すことなく、純粋にただ見るといい。見えるだろう。それらは、正しく見るための宿題だったにすぎない。われわれの神は、苦しみという問いを通して教え導くことを忘れてはならない。苦しみは、見るならば、即時に神である。

あなたが誰であるか知らないが、その人で楽しいですか、という質問は可能だろうか。つまり、ひどくきつくはないですか。苦痛をあまり理解できぬがゆえ、長寿を願ったり、長生きの秘訣に夢中だったり、ただ肉体を我として生きている者に問いかけてはいない。その役に疲れましたか。その役柄に不都合が生じ、苦しくなってきましたか。ならば、その苦しみの意味は何ですか。その意味をみつけてくれますか。これらの問いは神である苦しみからの、聞き届けられることを願う切なる祈りである。その自分で生きていて、もっと長く生きたい、死にたくない、こういう人はまだ輪廻的に若く元気であるゆえ、それほど感受性も強くないためあまり心配はいらない。第一段階のイニシエートを見てみるといい。途方もなく苦しんでいる。自分のことで。第二段階のイニシエートを見てみるといい。もうそのような苦痛は超越されているが、次の苦痛の意味と折り合いをつけようとまだもがき抗っている。その後、理解するだろう。わたしはそのどれでもないと。わたしは何とも関係がない者であると。何も所有できぬ者であると。これらは、崇高な意識状態において理解されるものであり、それ以後は、自我で一秒でも生きるならば地獄の苦しみである。つまり、気づきの管理下にない無統御のマインドが苦痛なのである。それゆえ第三段階のイニシエートはマインドを超越したのである。彼らにとって、メンタル界の征服は火急の要件だった。霊的な生死に関わることであり、それゆえ真剣だった。寝ても覚めても「真我」にこだわる必要があった。

何のために人間の三重の諸体に宿ったのか。つまりわれわれの、この瞬間の責務とは何なのか。無知のまま主従が逆転しているのが人間である。あなたは自分ではない。その行為する者ではない。瞑想を深め、魂と融合するにしたがい、内なる知恵へと撤退し、ただの視力か、ただ何であれ気づいている存在になるだろう。考えることをやめるだろう。その自由を喜ぶようになるだろう。ラマナ・マハルシが何かたとえ話を言っていた。重荷を背負っている人を背負っているのは大地であると。ただ焦点の違い。その人で生きるならば重荷を背負うため生は過酷である。その人ではなく、またどの人でもなく、すべてのすべて、その根源であることをわれわれは瞑想を通して学んでいるところである。やがて役としての自作自演は止むだろう。たとえ役が何か演じていても、自分が演じているという想像力とは無縁になるだろう。それらから自由であり、しかしすべてに気づいており、ゆえに真の安らぎと平和が支配するだろう。時代の教訓はいずれも超越されるだろう。

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