老い

老いは人から活力を奪い取り、若く元気であった頃の動きを、肉体的にも、アストラル的にも、メンタル的にも失わせる。活力つまりエネルギーである生命が撤退しつつあるのである。特定のその諸体が古く使い物にならなくなる場合、死が訪れる。そしてしばらく別の界層で過ごし、最終的には神智学徒がDevachanと呼ぶメンタル界の第四亜界で次の転生を待つ。瞑想にて、より上位の亜界、メンタル界の第三亜界に精通する場合、それはあらゆる平均的な修行者が欲望し想像している融合意識をわれわれに教え、真我を啓示する。しかし、真我に至ることはできない。求めるものは何であれ、アストラル体や低位メンタル体が活動を停止するならば存在するはずがない。唯一なる者のみがつねに存在している。その存在のみを実在と見なす意識を教えるのは、全く自我ではない。自我に起こることと言えば、急速な老いである。

通常、人は自分に”ハマって”いる。その自分として何かを謳歌したがっている。こうして偽りに縛られると同時に、その自分で在ることを欲望しつづけている。われわれが世間でどんなに偉大であれ、またわれわれが一時的にどんなに惨めであれ、われとわが身を想い、愛着し、神つまり真の自己を忘れている。興味深いのはいつも自分であり、自分の生涯である。帰り方が分からないと言うより、帰りたくないのである。こうして経験を積み、苦痛を覚え、苦痛に導くものを避けるべき過ちと分別するようになり、同時に、真理は苦痛でないことを理解しはじめる。こうして知恵へと老いてゆく。自我としての活発さを慎みゆく。

霊的な「老い」は、肉体が若かろうが、霊的な人格に乏しかろうが、勝手に起こり、帰ることのみを喜ばせる。したがって、諸体のあらゆる活動は徐々に静かになり、やがて魂によって完全に統御される。このある種の死の作用は心地よいものである。それまでどのような人間であったにせよ、そういう影や幻とは関係なく、”それそのもの”が徐々に無知を破壊し知恵を建設する。独立した自分などない。そういう想像力は尽きる。かつての自分として活動する意欲はどのようなものであれ断たれる。つまり無垢になる。それは何も判断せず、何の価値観もなく、ただ存在することにのみ充足する。

自我のいかなる活動からも解放されるならば、妨げるものはなく、それはただの存在である。実在である。なにもかもただ美しい。それはわたし自身、つまり真我が美しいのである。そこに恐怖や記憶や時間がないなら、われわれが愛でないことなど不可能である。何かが死ぬならば、それは幻である。何かが死ぬならば、それはより良いもののためである。死なず、新たに創られもしない、それらの現出の原因が真に存在するものである。瞑想がそこへ導くだろう。なぜなら、瞑想はいずれ個人に魂と接触させるからである。そして自我と魂を行ったり来たりするようになり、最後は静かな老境が支配し、何の力もなくなる。悟りという観念に代表される霊的な野心を抱いたり、霊的修養や努力に力づくになったり、それらは自我に力があるときのみ行われうるものである。やがて力は適切に方向づけられ、自発的に高位の力に服従するだろう。行為する者という悲しみの錯覚が終わることを許されるだろう。こうして活動は止む。われわれは止む。これら一連の作用は、自我の意志や願いではどうにもならい。だから、ある段階の人には、自我の努力が教えられねばならないときがあり、そこを通り過ぎた段階の人には、一切の自我からの離縁が推奨されねばならない。それとても、事を為すのはわれわれの想像を超越したものであり、存在するのはそれのみであり、それを感じさせないもの、それに生きさせないものは、いずれも悪である。しかしそれは見た目上の悪であり、実際は神である。あらゆる顕現、あらゆる出来事、あらゆる動きは、一にして全である完成にしか向かわない。何の背後にも完成へと引き戻す神の働きをわれわれは見るようになるだろう。感情や思考やイメージに騙されることなく、それらと関わりを持たないことで、実在のみに捉えられるだろう。それが至福である。

若い者は方法を欲しがる。結果を欲しがる。そういう力があり、元気なのである。それは一時的には正しい元気であるが、老いの局面を迎えるときには正しくなくなる。いかなる物質への力の方向づけもできなくなる。興味と関心がなくなる。われわれの知っている物質は、それが情緒であれ想念であれ、ただの苦痛である。その事実をただ見たとき、苦痛の背後には汲めども尽きせぬ喜びがあることを発見する。静けさや平和がある。それを得ようとする者は、その元気ゆえに違う何かに向かうだろうが、自我が老いるならば、もうそういう力もなく、何ら逆らうことなく、輪廻と呼ばれた地獄の深淵から立ち現れる愛に勝手に招かれるだろう。何かを欲している者は、その欲しているものがないことを知るまでは、獲得せんとして抗い続けるだろうが、そういうものがマインドの活動の結果でしかないことが分かったなら、瞑想によってマインドを統御しはじめるだろう。なぜなら、いかなる想念も真我ではなく苦痛だからである。こうして、思考したりイメージしたりさせる具体マインドを魂の力を借りて支配しはじめるだろう。やがて自分が魂になるだろう。こうして自動的な知恵と接触するようになり、何もかもを教えられたならば、もはや神という流れには逆らう力はない。終わらぬ真夏の生命が、生涯最良の喜びのなか、老いに死を準備させる。

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