自我意識は安全ではなく戦争中であり危険だが、本質的には安全なのである。自我を構成する想念や情緒と同一化して、感覚や肉体や精神が自分と思っている場合、危険なだけである。それとても、本当の危険ではない。なぜなら、それは思い込みだからである。思考という誘惑を無関心に無視できるならば、背後に導かれ、実在である。実在が真の我々であり、したがって世界と呼ばれるものとは関係なく、平和なままである。
例えば想念がある。あっていい。それをただ見る、ただ気づくことで、同一化は免れ、物質に固有の無知な動きは、魂に固有の無関心な目、人格ではない気づきの前で、自然に凪ぐのである。つまり、自我でどうにかしようとするなら永遠に無理だが、何もしないなら自我なる騒動は、燃料を得られず自然に収まるのである。同一化がないから存在できないのである。
自我の領域に我々が探しているものはない。ならば、探されているものは、その領域と関係してないのではないだろうか。関係をもっているのは、人間の魂である。これが本来の意味のエゴである。錯覚に見舞われているのはエゴである。意識と想念は、本来無関係である。意識が、想念の世界と同一化するとき、自我意識という体験が可能になる。それは体験ではなく、仮想体験である。つまり想念でしかない。だから、想念から自由でありさえすれば、実在である。意識は、想念ではなく、それ自身に安らぐのである。これが誤って集中と呼ばれているものである。それは自然な状態である。その自然、その調和が、一なる方つまり実在へと導くのである。
人生は仮想の体験であり、実際は何も起きていない。世界は、自分の世界である。自分とは、想念でしかない。したがって、世界は想念である。翻って、想念との同一化がなければ、我々は自由なのである。自我ではなく真我である。錯覚ではなく実在である。
自我にかける言葉は、「大丈夫」である。「本当は何も心配する必要はない」である。自我が何を騒ごうが、それは我々とは何の関係もない。「私はしかし自我です」と言わないでもらいたい。その通りになる。注目を与えているため、あたかも自我意識が実在であるかのように、手に負えない想念形態にまで膨らんでいるだけである。したがって、問題なのは焦点である。何にエネルギーを注ぐのか、である。エネルギーは思考に従うという公理を自身に適用しなければならない。自我に注目するほど自我は強くなる。この難解な不調和をいともたやすく調和に変えるのは、瞑想である。瞑想によって感応できるようになる内なる真我である。どっちが自分なのか、やがて識別できるようになるだろう。なぜなら、それが真我の意志だからである。誰も真我から逃れられない。人々は瞑想を通して自分から近づいていくものだと考えているが、事実は逆である。
自我にとって、瞑想は行為ではなく、治療か手術である。自分ではないものによって、瞑想中に意識が変化したことを多少なりとも理解させるものである。誰もが、瞑想前と瞑想後では気分が違うと言うと思うのである。誰が働きかけてくれたと思うだろうか。自我は自分が瞑想したのではなく、瞑想へ導かれ、瞑想中に治療されたのである。すべては個人的なことではない。巨大なものの部分である。我々が瞑想するのではない。画面の中から出る必要がある。自分に入り込む時代を終わらせねばならない。想念があるなら、その想念で瞑想を見てみるといい。どのように変化するのか、瞑想を見るのである。やがて、瞑想とは、自分がしているものではないことに気づくだろう。すべての行為も同じなのである。
いま自我に苦しんでいても、その苦しみが瞑想を続けさせる燃料となり、自我を満喫することなく、可能なとき、可能な時間だけ、黙々と瞑想することで、徐々にすべてが可能になる。したがって、不調和に苦痛性を知覚できる者は幸いである。苦痛を知覚できない者も、いずれは自我に欠陥を見い出すだろう。分離意識に瑕疵を見い出すだろう。それらは錯覚であり、錯覚でないものが意識のなかに昇るだろう。内なる太陽にわれとわが身を癒やされるだろう。どの本の言うことも信じる必要がない。誰が言う言葉も文章も、真理においては嘘である。現実は自身の目の前である。想念ばかり見ているのが人間だが、やがて想念ではないものを知るだろう。それは徐々に可能になるため、自我からすれば、不調和に生きることはできないため、瞑想に学び続けるしかないのである。神は素晴らしい。目をつむれば到達できるよう平等に設計した。これを自我は知り、神の名において安心して、信じて、瞑想を頂戴すべきである。