戦争と平和

平和ボケのなか、戦争はやってくる。恋に忙しい若者に徴兵は訪れる。金儲けに忙しい大人に貧困は訪れる。この世の赫々たる名声も死によって無みされる。束の間の夢を打ち破るのは銃声と悲鳴である。世界は決して平和ではなかった。絶えず不調和を抱えていることを誰もが知っていた。一時的なものは別の何かによって破壊される。それが歴史であり進化であり法則である。笑っていた者の顔はひきつる。良心は非道に席を譲る。殺戮の恐怖は突如として訪れる。生き残っても周りは死ぬ。家族は、より大きな家族の対立によって団欒を失う。肥えていた者は痩せこける。誰にも食べ物がない。愛情を注いだ者は死に、大切だった物は消えて無くなる。希は絶たれ、生は果てもない苦しみになる。卑劣と残酷のまかり通る時代が、不意打ちで自分に訪れ、混乱に絶叫する世界のなか、我々は恐怖に飲み込まれる。

目をつむるだけという言葉は信じられないと仰る。瞑想を五年やって効果がなかったらと仰る。効果は、平和ボケの者が求めるものである。自我ボケの者が言いうる無知である。笑って歩いていようが、地雷を踏んだとき、切実さが訪れるだろう。そこは安全な領域ではない。暗黒が押し寄せ、恐怖や苦悩や死が現実のものになるとき、自我の脆さ、自我の弱さを思い出すだろう。泣きながら、私は無力だと言えるだろう。

自我と戦争は同義語であり、その結果が世界である。自我の不調和は世界の不調和である。私の争いは世界の争いであり、世界の苦しみは私の苦しみである。瞑想者とは、人々が一時の安穏にかまけるなか、世界の不調和に苦しみを見出した者である。不調和は瞑想者における現実であり、自身がまさに戦時下にあるという認識が、苦痛を通して彼を切実にさせる。瞑想は彼にとって火急の案件である。平和は彼にとって唯一の使命である。不調和に付随する苦しみは、調和つまり一元によってしか解消できないことを彼は見て知っている。おのれの内部でそれを知っている。こうして人は瞑想によっておのれが何者であり、どのような無知が霊と物質という対立を夢見させているのかを理解するようになる。呼気も吸気も共に息である。エネルギーもフォースも共にエネルギーである。霊も物質も真実は一つである。瞑想者は、目をつむるだけで、思考ではなく実在に焦点を合わせられるようになる。唯一なる方に帰るとき、世界は存在しない。思考がない時、世界は存在できない。自我という供物を捧げ、個人や分離を作り出す思考が一において安らぎを知るとき、現実は至福になる。五年どころか、ものの一秒もかかりはしない。誰もがそう言えるようになるだろう。

自我で平和を知る時代があり、自我で生きていける時代がある。一方で、自我に戦争を知る時代があり、自我では生きていけない時代がある。後者の時代に属する者が瞑想するだけである。彼らは効果など考えもしない。それほど呑気ではない。戦時下にある者が生きるために食べ物を探さねばならなかったように、自我は調和に生きるために真我を探さねばならないのである。それは一瞬一瞬、目の前が戦争であるか平和であるかのいずれかである。刻々の識別であり、目の前が効果にして教えである。目の前が問題にして答えである。自我だけが効果を欲しがる。実在は目の前なのに。自我が恐れるのは肉体の死滅ではなく、自我の死滅である。この意味において、自我は決して瞑想を知らないし、瞑想できない。瞑想している者が内から立ち現れ、自我は徐々にこのお方に従うようになるのである。従った状態が瞑想状態であることを新たな意識で知るのである。これが完全に達成されるとき、真に調和である。戦争は錯覚であり、平和は永遠である。外的世界における調和と不調和は永遠に繰り返されるし、それが我々の神の手法である。この惑星の歴史でほとんどの種は絶滅してきた。それによって、より進化した形態が誕生してきた。焦点を合わせるのは、外的形態ではなく、それらの存在を可能ならしめる意志もしくは生命そのものである。それは目をつむることによって知られるものである。

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