日本のヒマラヤ

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治療村

ある村に、絶対に病気を治せる奇跡の治療がある。たとえ末期の癌であれ、治せる医者が一人いる。秘術と呼ぶべき医の真髄を極めた女の医者が村にいるのである。彼女は医者になるための国家資格を持たないため、民間療法という扱いになるが、この村では、どのような患者も彼女を頼り、彼女の治療を受け、彼女を信頼し、彼女に感謝している。治らなかった者はいない。彼女の治療に対する不平の声、疑念の声は、村において皆無である。病気が再発しても彼女が治してくれる。当然ながら、治療は無料である。痛くもない。何も感じないか、慣れてくるとむしろ心地よくなってくる。医者の元へ通う必要すらなく、家まで治療しに来てくれる。至れり尽くせりであり、良い事ずくめである。

その小さな村は山奥にある。あまり知られておらず、何もないため、普通の者なら誰もそんな所へ住みたいとは思わない。コンビニもスーパーもない。インフラも整っておらず、星々は明るくても村の夜は暗く、テレビもネットもつながらない。遊びたくても娯楽施設がない。一般の人々は、人間として生きるに便利な場所、必要な施設が近くにある場所、自身や家族という単位に都合の良い暮らしやすい住環境を求めるため、この村には来ない。しかし、小さな村とはいえ、土地だけは広いのである。ほとんどが山であり、開拓されておらず、人々が集まる場所が小さいだけである。住もうと思えば、村人が開拓を手伝ってくれる。誰でも住みたいなら来ることができる。こんな高所に住もうと思わないだけである。

私の父は、ここを「日本のヒマラヤ」と冗談で言ったことがある。冗談だが、なるほどと思った。ひどく隔絶されている。なぜこんな所に住むのかと普通の人は思うだろう。景色がきれいです、川が透明で美しいです、水が美味しいです、空気もおいしいです、病気を治せる美しい医者までいます、このように言っても来ない。村人は誰も疑わないが、外の人たちは信じない。何人も、これまで治療に来てみた人はいる。しかし、すぐに効果を求めるため、何も感じないとなると、疑心暗鬼になり、わざわざ来なくなるのである。

絶対に治ると信じた人たちが何人かいた。彼らは全員治った。これを外の世界で言って回ったが、あまり本気にされなかった。科学的根拠のないもの、エビデンスに基づかないものとして、世間の関心を引くことはなかった。奇妙な話である。それで、治ったが周りと話が合わないとなり、村に移住してきた人もいる。しかし、帰っていく人がほとんどなのである。どうしても村は不便であり、田舎暮らしが肌に合わず、物足りないのである。だから人々が住む普通の町へと去ってゆく。それでまた病気になって助けを求めに来ることを繰り返している者も多い。病気で困った時は来るが、困ってない時は自由にしたい、医者の女先生に言われたことを守らず、遊んでいたいのである。彼らは何を守らないのだろうか。女先生はどんなことを言うのだろうか。

女先生の話から

目をつむると、意識の高所に奇跡の領域がある。どんな自我も治せる女神がいる。ここでは、誰も瞑想するとは言わない。瞑想を受ける、瞑想を授かる、瞑想を賜るという言い方をする。能動ではなく受動である。自分でするのではなく、女神が助けるである。女神が治療するのである。自我という大病を癒やすのは、女神であり、その治療に使われるエネルギーは愛である。したがって愛に生きるという薬を与えられる。瞑想で気分が良くなったから分離の自我に戻ろうではなく、その気分を良くしたもの、心地よくさせた当のものを日常を通してたえず追求し、それそのものに融合し至ってほしいと教えられる。

村に時折り訪れるより、村に住んだ方が早いと教えられる。しかしどうしても村は面白くない。治療は確実だが、効果は遅い。それはゆっくり訪れるものである。効果に感応し、降下する神秘の力を知覚できるようになるのは、根気強く治療を受けた者だけである。どうしても村に住めないなら、できる時でいいからなるだけ目をつむり、静かにする習慣を養ってほしいと言われる。もう騒いではいけません。羽目を外すとことを許してはなりません。個人的な娯楽や安楽は慎んでください。ゆっくりでいいからそれができるようになってくださいと言われる。なぜなら、人間同士で対立したり、自分の内部で自分と対立したり、間違った不調和がすべての病気の原因だと言われるのである。また、間違った波動との調和、つまり正しい波動との不調和が自我の存続の原因だと言われるのである。

目をつむるだけと教えられる。瞑想をしに行くのではなく、瞑想は、女神は、向こうから訪れてくれるものである。誰の内にも等しく訪れてくれるものである。あなた方から目をつむり内に興味を抱かないかぎり、内なる女神はどうすることもできないと教えられる。自我という根深い病気の治療は難しいものではなく、難しくさせているのが自我である自分であることを知るのが普通は難しいようだと言われる。なぜなら、自我として遊びたいからである。自我として行為し、自分として生きていたいからだと言われる。この自分だけが問題なのである。治療を長く続けている人には当たり前のことも、最初は分からないから、疑心暗鬼に陥り、自分は治らないと思いがちだが、初期の暗闇は乗り切ってもらいたいと言われる。

村の医者、女先生が教えたのは瞑想である。瞑想生活である。肉体や精神の個人で生きるのではなく、生命そのものに生かされる生である。瞑想で理解できるようになったもの、接触できるようになったもの、瞑想中に幸福にさせた当のものの正体を深く知るよう教えたのである。そのような生き方……人間らしからぬ生き方を教えた。一般の人はこれに反応できなかった。科学的根拠がない、エビデンスがない、効果がないとして、続ける者が少ないのである。続けても、自分で続けている者が多く、治療は自分でするのではなく、自分が治療されるのだという認識を忘れるのである。融合したならば、そのような分離的な想念すらなくなり、治療そのものが自分になる。私が治癒である。私が愛であり光であると言うようになる。

このような話が村人つまり外の人が聖人とかイニシエートとか呼ぶ者だけの話ではなく、すべての人の常識になって欲しいと女先生は言われる。しかし、村の外で、誰がこの話を信じるでしょうか、とも言われるのである。

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