メメント

感情について。アストラル体が統御され始めたことを人はどうやって知るのかについて。統御されるとは、魂によって統御されるという意味である。自我が統御するのではない。自我は三重であり、アストラル体はその一つである。従って統御されるのは自我であり、自分と呼ばれるものが魂になり始めたとき、統御され始めるのである。

例えば、誰でも人は怒るだろう。その価値観によって許せないことがあるだろう。許せない相手を、自身の意図に沿うように、どうにかしてやろうと思うだろう。暴力でそれを表現する者もおれば、対話によって理性や良心に訴えかける者もいるだろう。相手が自身の許容範囲におさまるまで、我々は許せない気持ちに捉えられるだろう。このような者が瞑想するならどうなるか。三重の自我ではなく、そのわずか上の、高位メンタル界の魂つまりコーザル体の波動に捉えられ出したらどうなるか。その高位の波動が、感情や情緒といったアストラル界の波動(質料)に対して何を行い始めるか。

怒りが持続しなくなる。記憶へ執着できなくなる。身近な者とはよく喧嘩すると思うのである。家族とか。喧嘩したならば、どちらかが歩み寄りの姿勢を見せないかぎり、対立は解消されない。不調和が調和に戻ることはない。よく浮気された、不倫されたから許せないと人は言う。このような、出来事によって簡単に乱される情緒不安定な者が瞑想するならばどうなるか。彼や彼女ではなく、その背後の魂が人間を支配しにかかり、アストラル体を統御し始めるならどうなるか。激怒しても、次の日には忘れるようになるだろう。何事もなかったかのように感じられるだろう。起こった事が何であれ、許そうと思うようになるだろう。幸福な気持ちのまま、自分には関係のないことのように思えるだろう。

そう遠くない昔、ある弟子は、この現象すら許せなかった。許せない相手は、服従させることによってのみ、許せる相手になるという信条だった。そこで彼は、許せない事がすぐに忘れられることが許せず、許せない出来事が起きたときは、いかにそれが許せない内容であるかを忘れないよう、詳細にメモすることさえ試みた。おい、俺が許すわけないだろう、忘れるなよ、という具合に自分へ向けたメモである。

多くの人が「メメント」という映画を見たと思う。

主人公は数分で記憶が失われる。しかし許せない相手へ復讐するため、覚えておくため、忘れないうちに写真にメモをし身体にタトゥーを入れる。最後はすべてが自作自演であったことを知らされるが、再び主人公はその自作自演に生きることを選び、真実を忘れることを選択する。輪廻のように、次の役に入り、次の役を自分とし、本来の目的を次の自分の目的へとすり替える。しかし、瞑想する者とは、人格ではなく、魂に戻ることを余儀なくさせられる者である。絶対に許せない事をいくらメモしても、あるいはいくら身体に墨を入れても、その刻印は消える。記憶が薄れるのがあまりに急速であり、”自分であるために記憶しておかなければならないこと”すら、失われてゆく。過去や未来ではなく、永遠なる現在、刻々の現在、つまり実在へと向かい始める。記憶に支配されないなら、絶えず新鮮に何者にも何事にも反応しうるのである。このようにして、瞑想者は徐々に感情や情緒から自由になる。

その結果、感情的ではなく知的になる。情緒不安定ではなく冷静になる。気分の乱高下ではなく落ち着きと平和に支配される。これが当たり前になったとき、アストラル体は克服されたことを知るだろう。それは情緒ではなく、より高位のものの媒体になる。つまり愛に反応できるようになるのである。愛は情緒でも感情でもないため、魂に統御され出したときに初めて知ることになる驚異的な波動である。許せいない相手がした事は、知的に、なぜ相手がそれをしなければならなかったのか、そう条件づけられねばならなかったのか、理解される。この無知に対し、次に同情が生まれる。なぜならその無知は経験済みだからである。無知ゆえ、条件づけられていることも分からず、自分の感情と思ってきた時代の長い長い悲しみを知っているからである。次に、この無知を癒やす唯一なるもの、つまりに包まれる。分離した個人のこと、自分のことは忘れられ、対象への愛、ひいては唯一なる愛だけがすべてになり、結果として忘我という言葉が示す真の境地に至る。

以上は、解放の途上で瞑想する「者」に訪れる事象である。

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