女神

世の中で、人々は責め合っている。自我たちは非難し合っている。誰もが何かと対立し合っている。こうして皆、自分を養っている。神は真逆である。全部許す。すべてを愛す。すべてを慈しむ。誰をもやさしく包み込む。人々は神を父になぞらえるが、私の瞑想ではしばしば母に感じられた。私は母性を知らずに育ったが、内なる女神は真に母だった。波動は言葉で表現できない。しかし内なる母が優しいことには違いはない。柔らかく、美しく、優しい。怒りの神ではない。裁く神、脅す神、怖がらせる神でもない。人間とは異なり、常に抱擁である。いつも愛である。自我が失敗しても、それでいいと言われる。女神の慈悲を裏切り、自我として外へ出てゆき、痛い目に遭い、瞑想に帰っていくとき、待っているのは愛である。迎えてくれるのは抱擁であり、そこには自然の優しさがある。人間の世界で、この優しさに出会ったことはついぞない。私は母を知らなかったが、瞑想を通し、唯一なる母を知った。この方はすべての子の母である。

形態や見た目の話ではない。姿かたちではなく、神の性質において、もっと母性を強調したい。神は意志であり力であるゆえ、男性や父性になぞらえがちだが、その根底には必ず愛がある。我々の世界での母親は、弱き自我であり、利己的で感情的であるかもしれない。それゆえ、唯一なる母を内に見い出すとき、驚かざるをえないのである。いつも愛で包まれる。何事も許される。自我という苦しみの単位は、その途方もないやさしさで溶かされる。こうして自我は、自身が抵抗していたことを知るのである。女神に包まれて、おのがすべてを委ねて良いことを知るのである。どんな罪人も、どんな悪人も、これだけは耐えられない。この愛する力、この慈しみ、この抱擁だけには耐えられない。どんな反抗的な者も、降参せざるをえない。どんな強情者も、涙せずにはいられない。どんなひねくれ者も、幼な子に帰らざるをえない。ここに我々は癒やしの本質を知り、愛の力、優しさの力、柔らかさの力、純粋さの力、全てを許し慈しもうとする抱擁への飽くなき意志が、この内に存在することを知るのである。

この女神が、誰を否定しうるだろうか。生きていく上で、年齢や経験とともに、傷つかないため、防衛するために、これまで築き上げてきた距離を置く自我の性質も、ついには愛の前に崩壊するのである。信じまいとする心、裏切られまいとする心、離れようとする心も、この愛の前では抵抗をやめるのである。女神は愛によって自我を溶かし、また引き寄せ、合一へと至らせる。どんな恐れも、愛によって愛になる。この愛にあっては、もはや何も怖がることなどない。どんな恥ずべき罪を犯してきた自我であれ、女神と一体化するとき、すべて完全であったこと、隠された動機が愛であったことを見て知り驚くのである。到底、分離の目では見えなかったことに目が開かれ、何の執着も心残りもなく、融合し、肉の表現は優しさになるだろう。恐れることなく愛する者になるだろう。女神がするように、その永遠なる眼差しから、許すことを覚えるだろう。その一なる純粋意識から、万物を抱擁することの喜びに感謝するだろう。この女神を見えなくさせているのは、我々の想念であり、視点や焦点であり、目に見えるもの、頭で考えうるもの、これら錯覚への執着である。

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