暴風域と台風の目

動機があり、その動機において何がいけない、何がよいという価値観があり、それに沿った想念の力みと抵抗がある。これを自作自演と呼ばずして何と呼びうるか。いかにしてその馬鹿馬鹿しさに人を白けさせることができうるか。「政治というファミリー・ビジネスを云々」と誰かが息巻いていたが、まず、己がファミリー・ビジネスだと気づいてもらいたい。自我は自作自演で成り立っている。「私の考えでは」とか「私の意見は」などと言うが、考え、意見がなかったらどうなのか。あるいは、「私のもの」として同一化ないし所有しなかったらどうなのか。白痴になるのではない。叡智が訪れるのである。それは自身が肉体や精神としての外的自己ではなく、それらと関係していない超越した内なる霊的自己が我であるという叡智である。徹底して個人から孤立することが瞑想であり、その孤立によって統一を知ることが観照である。

霊的な話は利己的な話だろうか。霊的とは利己的だろうか。誰もが違うと答えるだろう。ならば、なぜ進化したいと思っているのだろうか。なぜ悟りたいとか、逃げたいとか、体験したいとか、個人的な事に終始しているのだろうか。いずれも利己的な話である。欲望や恐怖と同一化しているため、ひどく単純なことも見えないのである。

瞑想は個人のためのものではない。これが最初に教えられねばならない事実である。個人の目的のための瞑想ではないことを、瞑想者の何%が理解するだろうか。個人や個我のための瞑想ではなく、全我や真我の瞑想に入っているのはどのくらいだろうか。真我つまり永遠なる生命の美しき流れが存在しているが、我々は錯覚のため、肉体人間を自己と見なし、それを「私」として何でも考えるから、流れが知覚できないでいる。我々の世界では、神の目的が、個人の目的にすり替えられ誤用されている。神生が人生になり、全体の唯一なる意志が個人の自由意志になり、エネルギーがフォースになっている。この無知、この抵抗、このあがきが、全ての苦しみの原因である。

台風の目は、内にすぐある。目を瞑れば台風の目である。目を開けて外の世界に生きるなら、暴風域である。人は台風の真っ只中に置かれており、時にはここ、時にはかしこと、飛ばされる日々であり、浮き沈みの生であり、危険な風から逃れるために何かを掴もうと暴走する生であり、個人の人生は永遠に暴風域で戦われている。誰も、その中に入るという知恵を知らないのである。台風や暴風が苦しみを巻き起こそうが、苦しみを嫌がるのではなく、苦しみというものの中に入ったらどうかと提案しているのである。即座に台風の目にいることを知るだろう。何の苦しみもないのである。自ら風に飛ばされに行かぬかぎり、我々の中心は愛の平和、喜びの平和、至福の平和だったのである。これが読む人の事実になりますように。

個人事に巻き込まれる必要がないことを知り、台風の目へと、安全な高所へと、闇弱から魂の光へと入らねばならない。これは全く難しい事ではなく、自我で生きたり、自我で瞑想することの無意味さを理解し、できるだけ正しく生き、できるだけ間違った瞑想を排除した瞑想をしていれば分かるようになることである。しばしば、神聖な人格を表現できない限り、絶対に悟りの境地に至れないと教える教師がいる。彼らの言うことは全く嘘ではないが、そのようなことは、いわゆる誕生の際にすでに高い段階の諸体で生まれた魂には可能なことだろう。通常の者が、神聖な思い、神聖な言葉、神聖な行いを徹底できはしない。それをさせるのは、鍛えられた諸体ゆえに知覚できる内なる神である。彼と接触し、彼と融合しているから、結果として個人の表現が神の意図に沿う、つまりフォースがエネルギーに従うようになるのであって、自我で神聖な自分になろうと力むことは、しばしばエネルギーの浪費であり誤用である。唯一なるエネルギーの中に入れば、フォースという暴風域から自由である。風は凪ぐ。荒れ狂った海や波も凪ぐ。なぜなら、それらとはもはや関係していないからである。

最後に、神聖な人格になろうと努力することを否定するものではない理由を書く。人格の陶冶に励むことは、高位の波動を呼び込む自我の限られた手段である。良い事を思い、良い事をしようとすることは、自我が何とか低位の波動を高位の波動に従わせようとする試みである。したがって、少なくとも何もしないよりは内なる接触において前進する。この意味においては理論的には役に立つ。しかし、実際はどうしても人は力む。「私」が自我を指すからである。「私」で行うのである。結果で結果を扱い、行為の主がエネルギーではなくフォースなのである。魂ではなく自我で行おうとしている。それよりも、魂と接触し、内なる沈黙の守護、内なる台風の目を知り、その中に入った方が簡単であり安全である。すべきことは、彼が行うものである。流れるのは、流れによってである。これが神生である。自己改善は良いことだが、本当に改善してくれるのは自我ではなく真我であることを知る方が遥かに賢い。それと接触できるようになるために瞑想はある。

目次