物と者

我々の神のパーソナリティー的な側面にはいくつかの名前がある。秘教徒はサナット・クマラと呼んでいるが、惑星のロゴスである彼の別名もまたいくつかある。「大いなる犠牲」であったり「終わらぬ真夏の青年」であったり……。

昔、多忙で瞑想がおろそかになった事があった。睡眠もとれていなかった。つい、ソファでうたた寝をしていると、内なる神に「起きろ」と言われた。それで起きてそのまま瞑想に入ると、目の前に「物」と「者」という漢字を見せられ、どちらも「もの」と読むと言われた。それは知っていると答えた。すると内なる神は言った。「お前は本当に者を知っているのか」と。

意味が分からなかった。私は学がないから部首を知らない。調べてみると、者の部首つまり「耂」は”おいかんむり”だった。したがって「者」をそのまま読むと、老いた日である。ところで、サナット・クマラのもう一つの別名は、「日の老いたる者」である。つまり、者は神である。物になった神である。神のパーソナリティー的な側面である。「お前は、物質の生活に忙殺され、物の中で者を忘れ、神を殺している」と言われたのである。このことを長く忘れていたが、神に選り好みなしを書いているとき、ふと思い出した。

我々は者である。物だが、者である。肉体だが、同時に神である。内に神を求めよと偉大な者は語ってきた。汝自身を知れという教えは、いつしか決まり文句になり、さほど者たちに重要な意義をもたらさなくなった。外に物やものを求める者はそれゆえ無知である。粗雑な物質と同一化する自我の時代は、世で何を為したにせよ為さなかったにせよ、普通の人であり、汝自身が神であることは恐れ多く信じ難い。なぜなら、自我しか知らないからである。内在の神は自我とは関係がない。神性意識に瞑想という日々の手段を通して没入するまでは、自身の神性は良くて信念であるが実際のところ半信半疑である。ゆえに、手っ取り早く、目に見える外に教師や利益を求める愚を犯す。そうした知性の喪失を良いことに初心者を金儲けの道具にしている者も、また同じくらいその弱さの犠牲になっている者もたくさんいる。

「物」の部首は”うしへん”である。牛飼いは、柵を作るなり係留具を使用するなり、外へ出ていくのを防ぐ必要がある。者は、物へと出ていこうとする習性を持つ。神が者であるとき、「大いなる犠牲」を払い、物に支配されることを決意し、内なる神の留め具を外し、外へ彷徨いはじめる習性に生きる。その世界、見えている世界が物質世界であるため、者である我々は惑わされているのである。このような中で、まことに内を信じ生きる強き者は、いったい何人いるであろうか。この難しさを乗り越える者は何人いるであろうか。牛である勿れ(物)。いかに世界や出来事や人々が惑わしてこようとも、我々は物を扱う者であり、フォースを支配するエネルギーであり、物質の中で質料の贖いに携わる神である。だから以前にも書いたが、ある聖人は次のように言った。どのような罰も耐えられるが、神を忘れるという罰だけは耐えられないと。また別のイニシエートは次のように言った。もし今、自我に戻されるようなことがあったなら、おそらく気が狂うだろうと。

前回の記事を厳しい書き方だと言う者がいた。何を言われようが、内に引き戻すことだけが重要である。私は誰にも質問したことなく、誰にも頼ったことがない。そのような発想さえ生まれなかったのは、自分ではなく誰かに頼る者が弱いこと、そして頼るたびに弱くなることを、子供の頃から見てきたからである。頼ってもいいが、弱くなった分を、通常の何倍もの忍耐と時間をかけて元に戻すのは大変である。だから、人に頼る者はずっと頼っているではないだろうか。このような者に与える一撃は、あなたが神であるという事実である。神に打たれぬかぎり、自我に耄碌している者は思い出さないし若返らない。自らが「終わらぬ真夏の青年」であることは知られぬままである。瞑想で、神に至ることができる。むしろ、彼からやって来る。そして、神しか存在しないという事実が啓示される。それは強烈に愛である。諸体を鍛えていない普通の者にこの偉大なる愛という波動を流した場合、耐えられないだろう。徐々に、諸体は鍛えられることを知らねばならない。特別な例を除いて、通常は時間がかかる。それが正しく、また安全なのである。急いで結果や効果を求めてはならない。神は不眠不休の奉仕者である。我々が瞑想し彼に忠誠を誓うや否や、内に焦点化しているかぎり、彼の奉仕力つまり引き戻す力は強くなる。外に何時間か生きたなら、それを帳消しにするだけ、一時間や二時間で普通は十分だから、内に帰り、瞑想すべきである。内観し、内感に至るべきである。我々を支配する物を通して、者から、日の老いたる者へ、神へと帰らねばならない。

……長い、非常に長い表現周期の間、霊を支配するのは質料だからである。支配するのは物質ではない。粗雑な物質は常に、エーテル的な性質を帯びた、つまり形態ではなく秘教的に質料と見なされるフォースによって支配されているからである。

アリス・ベイリー
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