生きる喜び

生きる目的に迷って苦しんでいる者は多い。我々は、その迷い苦しむ自己を犠牲にしたときだけ、神の目的が生きる目的であるという境地に到達するだろう。したがって、個人は至福のうちに無視されるようになるだろう。犠牲とは即至福を意味する。よって個人の目的は、神の意志と目的の顕現のために、その個人を犠牲にすることである。これだけが救済への道なのだが、依然として、我々は個人の苦境の救済を生の目的にしているのである。

前の記事だったか、鬱病の本当の苦しみを分かっていないのではないか、軽く見ているのではないかという意見をぶつけられた。明らかに私は軽く見ている。つまり、明らかに私は真我の偉大さを知るがゆえ、錯覚がいかにちっぽけなものであるかを知っている。もし私が鬱病になったならば、喜んで無視するだろう。医者にそう診断されようとも、病気と真我が無関係であることを賛美歌のように喜ぶだろう。

我々の問題は、偽我と真我を識別できないことに尽きる。最初はマインドのせいで霊は理解できずとも、自我と魂を区別できるようにならねばならない。魂は、マインドが活動していても自身と区別して識別できるからである。だから、生きる目的が失われたとか、子供が災害で死んだとか、気力というものがなくなったかのように思えたとしても問題ない。簡単に解決する方法がある。つまり個人ではなく魂に焦点を引き戻すことである。世界のような客観ではなく、それを可能にさせている真の主観に意識を引き戻し集中することである。即座に錯覚は溶けるだろう。何が自分であったかを至福のうちに思い出し、我すでにして完全なりと言うだろう。その完全性を損なう自我の犠牲こそが是非とも我々には必要な最高目的であることを思い出し、まったく個我やその主張には無関心になるだろう。

生きる目的がなく生きる気力がないのは、個人に生きているからだということに気づいてもらいたい。第三イニシエーションまでに達成しなければならないことの一つに、外の世界の一切に対する無興味の達成というものがある。周囲の人々は個人的な夢や幸福や興味のために生きているが、そのいずれに対しても無関心であるばかりか、苦痛を覚えるようになるだろう。それは、あまりにも真我が素晴らしいためである。ブラヴァツキーが言うように、真我以外はすべて苦痛であることが知られ、我々つまり個人とは、神の意志と目的の顕現のために犠牲にされねばならない存在でしかないという歓喜に満ちた結論へと導かれるだろう。この歓喜は、真におのれをハートの神のために犠牲に捧げた者だけが知るものである。真に明け渡した者だけが知ることのできる、生きる喜びである。

多少なりとも知的な者であれば、個人に生きる道がすべて絶望に続いていることを発見するだろう。だから道に入る前のあの耐えられんばかりの苦痛は避けて通ることはできない。その苦痛が我が友であるという偉大なるパラドクスを発見するまでは、苦痛に抗い続けるだろう。苦痛は、受け入れたときだけ解消できるものである。苦痛を受け入れるとは、ありのままに、苦痛と共に在ること、苦痛の存在と共存を許諾することである。この無抵抗なときにだけ、苦痛をあるがままに見ることが可能になる。すると苦痛がまさに扉となって、魂の歓喜の意識へと直接的に導く役目を果たすのである。この事実は現在の人類には全くといっていいほど知られていないのが残念でならないが、一人ひとりが自身のペースに沿って進歩の道を歩んでいるがゆえ、みだりに介入することもならず、また介入がまったく賢明でないことも往々にして事実である。

喜ばしいことに、個人的な生に疲弊しきっている人は多いだろう。追い詰められた者ほど幸運な者はいない。窮鼠猫を噛むではないが、もう逃げようがなくなるとき、対峙するしかなくなるからである。このようにして錯覚は理解され、また統御可能なものとなる。それは追い詰められた個人が自己を諦めたときだけ流れ込むことのできる偉大な力によるものである。そして、生きるのではなく、生命自体を理解するようになるだろう。個人が生きることではなく、個人を可能にさせている生命自体に到達するだろう。これは存在の世界の話である。このとき、自身は意識でも魂でもなく、永遠なる至高霊であることを理解するだろう。そして、長い長い転生という苦闘で得られた果実を理解し、なぜ肉の中に閉じ込められ、低位我に逆に統御されるという犠牲が払われたのかを理解するだろう。我々の神もまた、犠牲を通して、不完全性から完全性へと向かっているのである。

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