鬱病や生の苦痛は治るか

鬱病は治るのかという質問について。何の病気でもそうだが、罹患しているのは個人ではなかろうか。瞑想に熟練し、個人という偽の己と真の己を識別できるようになったとき、真の己はすでに至福であり、永遠に病気から無縁に美しく輝いていることを知るだろう。個人が鬱病であっても、偽我から真我へと焦点をずらすことさえできれば、病気という誤解に苦しむ必要はないのである。つまり、最初から治っている。鬱病は個人つまりマインドの自作自演にすぎなかったことを知るだろう。これだけが瞬時の治癒である。

鬱病とはそもそも何なのか。それは未来や過去に生きる者の不安や恐怖の末路である。偽我はマインドであり、未来や過去といった脳内時間の世界に生きている。そのような想念が取り払われたらどうだろうか。時間などないのである。書物が言うところの「永遠の現在」という言葉が指し示す強烈な喜びの無時間しかない。不安や心配事は時間の世界にだけ存在する。それはマインドの自作のものである。案ずるより産むが易しと言うように、案ずるのは時間に生きる個人であり、偽我を真我に明け渡し、奉仕に生き、よって常に最高のものに導かれざるをえない霊的生き方に改心するならば、永遠の現在が顕現し、生は優しく易しいものになるだろう。そして、ものすごく安心するだろう。ものすごく喜び溢れるだろう。世界は陰鬱ではなく、美しくなるだろう。素晴らしくなるだろう。このようにして鬱病などの錯覚は消え去るだろう。

だから、個人の病気をどう治すかではなく、偽我を自分と思いみなす誤った習慣を治療することだけが求められているのである。まず自我である自分と魂の区別ができるようになるのが先決である。魂と繋がりさえすれば、偽我から真我へと徐々に意識の焦点をずらすことが可能になるゆえ、個人が鬱病であっても関係なくなるだろう。「私は鬱病ですが、つねに至福です」と言えるようになるだろう。個人と魂を間違わないように。どちらが自分かを見失わないように。そのために瞑想と奉仕が存在している。

いつだったか、死んだらどうなるのかという疑念から、怪談とか心霊話とか研究するようになったという者が、ある霊能者の動画を見せてくれて、どう思うかと聞かれた。こういうものはあまり見ないようにと答えた。次に、その霊能者は良いことも言っていたからそこは強調した。「精を出す方向性を変えて、ボランティアなどに熱心になるようになるならば、あなたに起きる悪いことが解除になる」という言い方をその霊能者はしていた。そう習ったのだろう。その者自身がこの意味について精通した上で言っているようには見えなかったが、これは事実である。たとえば鬱病になるような者は、自分のことばかり考えており、自己中心的である。どう反論されようが、「あなたは実際に、また純粋に、兄弟姉妹のために働いていますか」と聞きたい。流入するエネルギーは、正しい流出経路を見つけないと、その者を破壊してしまうのである。この事実を世の中のほとんどの人が知らない。だから、ボランティアをする必要は別にないが、その者が置かれた環境で出来る思いやりや奉仕を実際に実行することで、正しくエネルギーは使われ流出するようになるだろう。こうしてその者は健全になるばかりでなく、その霊能者が「解除」という単語を使ったように、悪しきカルマは相殺される。また新たに悪しきカルマを積み上げることも少なくなる。これがいわゆるカルマヨガの本質である。

奉仕がどれほどの効果を持つのかを知るならば、人間は徐々に自分にかまうよりも、兄弟姉妹にそのエネルギーを使うようになるだろう。しかし、すでに鬱病になってしまった人は、奉仕する気力がもはやないかもしれない。瞑想は正しいエネルギーの流入と関係しており、奉仕はそのエネルギーの正しい流出と関係しており、セットである。よって、正しく流入するならば、正しい流出の経路へと導かれざるをえないだろう。なぜなら流入だけしている場合は苦痛だからである。よって、難しいところだが、鬱的な自分から自由な方の真の自己を瞑想で見出すしか抜け道はないように思える。ある(自称)イニシエートは、鬱病などの人は瞑想しないようにと言っていた。流入するエネルギーによって悪化するだけだと考えたのだろう。だからか、瞑想するより精神科で適切な治療を受けるようにと言っていた。しかし、精神科の医者は、適切な治療方法を知らない一般人である。よって薬を出すだけであり、患者は一生薬漬けになるようになっている。しかも薬はやがて効かなくなる。これが適切な治療なのであろうか。鬱病はエネルギーの正しい流入と流出の問題と関係しているという根本を知らずして、適切な治療に目覚めることなどできないと私は思う。

いま、不安や恐怖があるだろう。しかしそれはどうでもいい。焦点をマインドに向けたままならそういうことになって苦しいというだけである。この理屈を知り、マインドの背後の魂に到達することが最高の治療であることを理解せねばならぬ。自分がマインドではなく、その背後の魂であることを実感したとき、つまり融合したとき、正しい流転の科学を一発で理解するだろう。我々は、ゆえに抵抗しなくなるだろう。我々の意志や意図はどうでもよくなる。神の意志だけが重要になるだろう。神のエネルギーを通して、神の生命と意志と目的に、自己を捧げることの美しさに酔い痴れるだろう。犠牲という喜びに満ちた奉仕に目覚めるだろう。これが一体性の最高美へと導くのである。

見ているものは、マインドが見せている非実在である。非実在ごときで悩んでいてどうしますか。未来や過去に生きるのではなく、瞑想で現在を見出さねばならない。それは見出す類いのものだろうか。驚くことに、すでに現在なのである。想念で時間に彷徨いださないかぎり。我々はすでに現在であり、すでに安心してもよいのだということを知る必要がある。マインドの背後の魂と通ずるには、未来や過去にまつわる想念を無視し、それが頭の中だけの話であるという事実を認め、実際には時間はなく、現在という言葉でしか言いようのない今がただ存在しているだけであるという単純さに憩うべきである。鬱病や、鬱病にさせるような想念や情緒から自由なのは、この時間なき現在だけである。その現在から魂に通ずることができる。このようにして霊的に焦点をずらす技術を習得すべきである。これだけが「適切な治療」であると私は思う。

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