目醒めよ

私の生活はずっとひどい状態で、特に精神的には苦しみにあえぎあえぎの状態なのです。病気持ちでもあります。神智学やクリシュナムルティなどの本を読んで葛藤を統御できるだろうか、と思いましたが、そうはなりませんでした。非二元論の本も何冊も読みました。気づくことで苦しみが終わっていくと思ったのです。

気づくのはあなたではない。あなたが気づかれるのである。気づこうとしているあなたに魂として気づくことが、以前あなたの言った「気づきに気づく」の本質である。現在、あなたは一生涯だけの取るに足らないパーソナリティーを自己だと錯覚している。それは憑依のようなものである。人間の魂が、パーソナリティーに一時的に乗っ取られている状態である。しかし、その背後の魂が、パーソナリティーつまり諸体の動きに気づき、気づくことで諸体を条件づけるフォースを統御するようになるのである。

「食欲があるなら、その感覚を見る。見た瞬間に、あったはずの食欲などなくならないだろうか」とあります。何度も試しましたがなかなか消えません。イニシエーションの達成やなんらかの素養・能力が条件になっているのでしょうか。それとも凡夫でも統御できるのでしょうか。

魂との接触による魂のエネルギーの流入が不可欠である。ジュワル・クールが「見習いの弟子」と呼ぶ者たちはこのことを実践的に学んでいる最中であるが、書店にあるような他の本にはエネルギー的なつまりオカルト的なことは書いてない。理由は主に二つである。まず、すでに高位のイニシエートである場合、つまり自動的になっている場合。ラマナなどがこれに当たる。次に、他の大多数を占める本もしくはその著者は、このようなことをおそらく知らない段階である。稀に知っていても、自分(パーソナリティー)の能力、自分が得た能力だと思っている可能性が高い。

つまり、学ぶ初心者が知るべきことが書いてない本だらけなのが初心者の問題である。どれが本当の話か分からない。クリシュナムルティはオカルト的なことを知っていたがあえて避けて書いている。ラマナやニサルガダッタの本は、やさしく書いてあるだけで、実際の内容は第三イニシエーションの準備をしている者と関係する話であるため、初心者にはまだ無関係なもの、でき得ないものである。順序を追って段階的に丁寧に書いたのはジュワル・クールだけだろう。

「見ること」や「気づくこと」ができないのは、パーソナリティーでパーソナリティーのフォースを見ているからである。これは対象のフォースが強くなるだけであり、食欲で言えば食欲が増すだけである。自身に対する諦念を前提とした正しい生き方に加え、日々の瞑想によって、アンターカラナの前半が構築され、パーソナリティーと魂が繋がる。すると、見るだけで統御できるようになる。なぜなら、エネルギーは思考に従うからである。第二イニシエーションの準備をしている見習いの弟子たちは、この「変性」のテクニックを自身の内部で習得しようとしている。これができるようになると、どの記事か忘れたが、以前に掲載した質問者のように、見ただけで実際に消えました、という報告が来るようになり、私はそれを大いに喜ぶ。というのも、問題はただ自身の内部のフォースなのであって、我々が考えているような外的な出来事や事象ではなかったことがオカルト的に知られるからである。この大いなる知見がやがて超越へと導く。

私の生活はずっとひどい状態で、特に精神的には苦しみにあえぎあえぎの状態なのです。病気持ちでもあります。……日々、自動的に思考、感情が起こります。そしてそれらを反すうするように苦しい思考感情が巡るのです。未来に対する悲観がとても強いです。なにか解決していくような感覚が見つかりません。確かめようのない未来、来世、来来世の自分も同じように苦しんでいるかもしれないと考えてしまいそれが自動的で強迫的でもあり苦しいのです。

魂を見出す直前まで、それは普通である。誰でも似たような経験をすることになる。それでも歯を食いしばり正しさだけに固執し、負けずに道を歩み続けるならば、あなたも含め、各々を導く(担当している)方々が助けてくれるだろう。必ず救われるだろう。私も例外なくそのような境遇をくぐり抜けている。毎日死にたい。毎日、なぜ生きねばならないのかが分からない。こうして絶望していると、あるとき、その絶望している男を見ている自分に気がついた。見ている方の自分は苦しんでおらず、余裕である。このとき私は完全に理解した。この世はすべてパーソナリティーによる自作自演であり、霊的な魂つまり真の自己は、一切この世と無関係であり、つまり超越していることを。よって何にも影響を受けないことを。

現状、初心者の問題はここだけである。パーソナリティーと魂の区別がつかないという問題である。この時期は無意味にも考えすぎて精神的な病いに蝕まれる者が多いゆえ、あまり考えないようにしていただきたい。あまり気にしないようにすべきである。気にするほど自己破壊的な気を作りだすだけだからである。どう足掻こうが、あなたも知っている通り、パーソナリティーの自分では何も成功しない。何もできない。ただ苦しいだけである。したがって、もし真にそこまで結論として到達したならば、自動的な諦めが生じるものである。無理だと。未来に対しても諦めが生じるはずである。「なるようになる」という言葉のオカルト的な真意を知り、安らぐであろう。よって未来より現在だけが重要であることに気づくだろう。

逆に言えば、パーソナリティーに対する諦めが生じていないことで、霊的な力の流入を妨げているのが、いわゆる「魂の闇夜」の正体である。まだ偽の自分に対する洞察が鈍く、ゆえに偽物に固執し、偽物が助かることを願っている。にも関わらず、現実では、助からずに日々たくさんの肉体が死んでいる。もっと進歩したとき、その自分、その偽物、肉体人間に対しては、どうでもいいという感覚が芽生え始めるだろう。どうにもならないのだから、無理だから、もはや自分に関しては諦めようとか、神の御心のままにと投げ出すことを覚えるだろう。それ以降、一切、自分について良い事は起こらなくていいと考えるようになり、良いことが起きても関わらなくなるだろう。そのくらい注意深く賢くなるだろう。このようにして相反する対をなす道の中央を歩めるようになるのである。この高貴なる中庸の道だけが、魂に通じている。この最後の文章について真剣に考察すべきである。

また、あなたの場合、耐えるということの素晴らしき意義を見出すことが肝要である。それがどれほどの効果をもたらすのかを知るべきである。また、諦めるということの美しさについても同じく目が開かれねばならない。犠牲とは、一時的なものの犠牲であって、実際は永遠なるものの獲得を意味している。これが分からぬ者を「凡夫」と言うのである。霊的な道を歩みながら、パーソナリティーの幸福を求めてどうしますか。パーソナリティーは不幸でいい。なぜなら、

パーソナリティーの深い悲嘆と不幸の直中にあっても、魂の喜びを知り感じることができる。これは秘教のパラドクスであり、決まり文句である。しかしながら、それは事実である。学ぶ者はこれを目指さなければならない。

ホワイトマジック下 p.68

それほど遠くない未来、あなたが不幸だろうが病気だろうが関係なく、魂の至福や喜びに満たされることが可能になるだろう。そのとき、実際に、遠くない未来であったことに感激するだろう。そして、一気に色々分かり始める。

目次