生きる意義

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前提

  1. 意識は、同一化している「形態の性質」に依存している
  2. 意識の変容に興味を持つ者は、必然的に「形態の性質」に着眼する者である。
  3. 人間が関与している形態は、肉体、アストラル体、メンタル体である。これらの形態の材料である質料は、進化ではなく退化のフォースに従っている。
  4. 人間の魂は、これら三重の形態と同一化し、それらの形態性質つまり形態が表現するフォースに幻惑され、盲目的に付き従っている。これが無知と自我意識の原因である。
  5. 瞑想の効用は、形態の波動を高めることにある。低位性質と高位性質を理解し、前者を後者に従わせる術を学ぶ最高の学び舎である。これに成功したとき、我々は漸進的に新しい意識領域を認識するようになる。

以上の前提は簡略化された理論でしかなく、自身に適用する仕事は各々の意識に任されている。したがって我々は日々の生活や瞑想を通し、形態の波動を高め、新しい意識領域を開拓し、個人的な目的ではなく、生命自体の目的に適う媒体へと形態を磨き上げねばならない。

生命はなぜ形態に閉じ込められることを意志したのか

  1. 生命は不可分である。
  2. 人間という現象面に注目するとき、生命は分割して理解される。
  3. 物質は魂の顕現のための器であり、魂は霊の顕現のための器であるが、この三つに遍満し、この三つを統合しているのは唯一なる生命である。

悩める人間たちの眼前に、人間の目的は解放であると教える教師が現れる。解脱すること、悟ること、真我実現することが人間の目的であると教師は教える。我々は自我ではなく真我であると教えられる。そこで我々は手を上げ質問する。

  • 解放が目的ならば、なぜわざわざ物質に入ってきたのですか。
  • 解放されていた者が、何のために束縛されに来て、解放を目指すのですか。
  • 最初から入ってこなければ済んだ話ではないですか。

おそらく、解放を教えるならば、なぜ束縛されることを我々は意志したのか、そこから始めるべきである。そうすることで、一般的な解放という概念に誤解があることが知られるだろう。解放は、そもそも束縛されていることを前提としている。したがって解放は束縛への抵抗である。この物の見方が誤りであり、不自然であり、人間に無意味な霊的欲望を希求させる原因となっている。

我々は「肉に宿った神」としばしば形容され、また神の別名が「大いなる犠牲」であることを教えられてきた。それは犠牲ではないが、意味としてのヒントにはなる。霊から物質への降下が意図的であったこと、その結果としての我々には、降下をもたらした原初の意志に包含される目的に従う義務があるであろうこと、つまり人間を含めたすべての存在の生命意義を理解してはじめて、真に正しい生き方を表現しうるであろう、といった推論である。

意味と意義

先生が二人の生徒に何かを話した。一人は「意味が分かりません」と答えた。もう一人は次のように答えた。「意義が分かりません」と。

一般的な世界や常識から距離をおき、冷静になり、霊性の知識に疑問を抱きつつ積極的に取り組む時期がある。それが私に何を意味するだろうかと探求者は問う。様々な謎があり、その意味を一つひとつ紐解いていく。やがて「そういうことだったのか」という納得に多少なりとも落ち着くようになる。この時期において理解する意味の対象は、主に自分自身に関するものである。彼は「汝自身を知れ」に関与し、熱意を持って自己を探求する。しかし彼は忘れている。それを行っているのが自我であるということを。つまり、彼は自我に奉仕しているだけであり、低位生命のフォースに動かされているだけである。

したがって、この段階を経ることで探求者は、自分に意味のあるものが実は進歩を妨げているということに気づく。なぜなら、自分が退化のフォースに従っているだけであることを理解するからである。彼はこうして自分に奉仕することをやめる。盲目であることの恐ろしさを知る。そして退化つまり悪のフォースではなく、進化つまり善のフォースに従う必要があることに目覚める。こうして、高位生命を知覚するようになり、その高位我と自身である低位我を融合させる職務に取り掛かるようになる。これは明確に、アストラル偏極からメンタル偏極への移行を示す一つのマイルストーンである。

探求者の視野は開ける。自身の発達に向けられていた利己主義の壁を自身で打ち壊すことに成功するのである。このとき、もはや彼はおのれに興味を持っていない。なぜなら彼は、霊性の意味ではなく、霊性の意義に気づき始めているからである。意義は、意味の持つ目的や責任に焦点が当てられたときに使用される単語である。ここでの意義は、意味の応用であり、意味に対する高位の理解の結果である。自身への意味ではなく、全体に対する意義だけが、彼の注目と関心を奪うようになる。つまり全我に没頭することで、小さな自分は忘れられる。こうして流入するものは正しい流出の表現を見つけ出す。こうして人は高位生命の正しい伝導体として頼ることのできる働き手になり始める。これが、いわゆる「世界奉仕者」である。「自分奉仕者」を卒業した者の生きる意義である。それは個人の目的ではなく神の目的と関係しており、物質内での我々の意識の意義を知ることであり、それは「物質形態を生命様相の作用に従わせ、神の意志を成就させる特質を生み出すこと」である。

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