哲学者と瞑想者

もしもこの下位の可能態・能力が最終的には上位の可能態・能力と一つになるとしたら、……あなたは概念の高処に上昇することができるのです。……世界霊魂の概念の高処にです。世界霊魂は、すべての現実態であると同時にすべての可能態・能力であり、すべてにおいて全体として存在するのです。それゆえに、結局あらゆるものは一なのです。そして、この一性を知ることが、すべての哲学と自然観照の目標にして終着点なのです。

ジョルダーノ・ブルーノ「原因・原理・一者について」 p.158

瞑想者とは、結果の世界ではなく、原因の世界を扱う者である。アリストテレス的に言えば、現実態(エネルゲイア)ではなく可能態(デュナミス)、形相ではなく質料に働きかける者である。しかしながら、哲学者がマインドと知識に関わるのに対し、瞑想者はマインドを静止させ知識が指し示す実体に直接関わる。哲学者がマインドを空っぽにする勇気を持つならば、彼らは可能態や質料を見ることができる。触ることができる。動かすことができる。変性させることができる。それにより、自身の意識を変容させることができる。兄弟姉妹の意識を助ける手伝いができる。新しい意識で「物自体」の目的に近づくことができる。なぜなら、すべての質料、すべての生命はひとつだからである。

哲学者は、すべての形態意識が同一ではないことを認める必要がある。この場合、人間に物自体の認識が不可能であるという単純な画一化は不可能になる。瞑想者は、形態の質料あるいは形態のフォースに常に関わっており、外観ではなく特質、形相ではなく質料、肉体ではなく魂に関わることで、真我である生命に到達する。したがって、人間という現実態は、物自体の認識が可能な可能態である。進化過程の大半においてこれは当てはまらないが、人間の意識が肉体や外観との同一化をやめ、さらに精妙な形態との同一化もやめ、自らを構成する三界の質料の波動が魂によって高められたとき、肉体人間と魂は一体化し、霊と物質の弁証法的な存在でしかなかった人間の魂は、諸体を通した三界での経験(つまりパーソナリティーと魂との相互作用)を通してさらに止揚され、ついにはマインドがけっして知ることのできないもの、多様性の背後の主観的な統合性、形態の背後のリアリティー、つまりは生命自体を認識するようになる。

知識の領域は外観つまりイリュージョンにすぎず、知識そのものは、知恵に変換されなければ、障害になりうるという認識の成長……

アリス・ベイリー「秘教心理学・第一巻 」p.64

哲学者のみならず、霊的な知識の研究者、知識の果実の反芻者、愛に根ざさない知識の武装者、二や四や六の慰めを拒絶する者たちにとって、アストラル界のグラマーよりもメンタル界のイリュージョンの方が錯覚として堅固な要塞であり、打ち壊す方法が肉体の死でしかないケースは少なくない。彼らは今のところ、瞑想よりもメンタル的な欲望を、マインドの静止よりも活発なチッタの変異を優先している。

二十歳ばかりのとき、ある聖人の書物を研究してはや50年という人物と知り合った。十年後、彼の質問と彼自身の答えは、十年前よりも悪いものになっていた。本人は穏やかで善良な常識人だが、膨大な知識や読書量が彼の進歩を妨げ続けている。いくら頭で考えても、カント的な限界内での妄想にとどまる。妄想よりも瞑想である。考えることよりも考えないことである。例えば私が書くとき、何が書かれるのか知らないし、考えもしない。白紙に書かれるものは白紙のマインドによるものであり、しばしばア・プリオリなるものが顕現し、それゆえ書かれたあとにはじめて知るものもある。

また別の学者的な人物で、徐々に悪化していく人を見ていたことがある。最初は聡明な紳士だった。しかし徐々に言うことの内容が、病的になっていくのだった。大丈夫だろうかと思っていた。しばらく音信不通のあと、彼が最後に私に送ったメールの内容は、「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……」などである。狂気に至る者が決して少なくないことを知ってもらいたい。この場合、常識とバランスが治療の秘訣である。孤独にならないこと、人と接すること、閉じこもらないこと、逃げないこと、内より外の活動を重視することなどが求められる。

流入したものは、流出される必要がある。流出とは、人間においては、想念・言葉・行為の三つの表現で組み合わされる日々の活動つまり創造である。仏教徒の言う「身口意の三業」を支える動機が、個人的な感情や欲求や恐怖ではなく、それらが変性された愛であることが重要である。ショーペンハウアーは、必ずしも自分が書く内容を自分が出来る必要はないと言って批判を退けたが、瞑想者は流入と流出の一致をつねに目標にしなければならない。これを自分でやると大変だが、徐々に視点と焦点を魂へとずらし、個人というフォース体でフォースを扱うのではなく、魂としてエネルギーが自身のフォースを自然に調和へ導くことをおのが内部で見出さねばならない。すると、個人的な出来事とは関係なく、揺るぎなく平和である。哲学や知識によらずして、揺るぎなく知恵である。情緒や感情によらずして、揺るぎなく愛である。少なくとも、目をつむればその意識に入れるようになるだろう。あらゆる瞑想者は、この事実を達成することで、医者や病院、学者や理論がけっしてできない治療を兄弟姉妹に施し、政治や教育がけっして実現できない課題の克服方法を示し、睡眠の後に活動が訪れるように、瞑想のあとに奉仕が続くことが理想である。これが流出の秘訣であり、愛と喜びを基軸とした生の自然である。

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