苦悩の終焉

苦悩から自由になりたいが、瞑想以外の方法でそれを教えてほしいと質問があった。なぜ瞑想が嫌なのだろうか。瞑想の方法が分からないと仰る。難しいことは私にはできない。何十年も瞑想している人がいるなか、今から始める気力がない、追いつく自信もないと仰る。何十年も瞑想している人とはどういう人だろうか。大別する場合、以下の三つのタイプに分かれる。

1瞑想状態が自然の意識になった者。サットヴァ神の目的真我
2努力もしくは非努力を通じて瞑想の向上を真剣に試み続けている者。ラジャス調和二重性
3長年の失敗により真剣ではなく、挫折ぎみで向上も緩やかな者。タマス効果自我
あらゆるこの中間点が存在するのは自明である。

瞑想が、効果のための手段獲得するための取引へと堕落するとき、それは瞑想ではなくなる。我々は、瞑想に反する自身の態度、自身の性質を知る必要がある。子供は、学校や家で「静かにしなさい」と叱られる。なぜなら、親や先生にとって騒音は不快な妨害だからである。瞑想においては、我々が騒音であり、真我が親であり先生である。私という騒音で努力するとき、より騒音はひどくなるだろう。親つまり真我の言う通りに身を委ねるならば、瞑想は自然なものであり、騒音から静けさへ、苦悩から喜びへ、利己主義から一なる愛へと導いてくれるものである。

ただ静かにしていること。これが瞑想の基本である。簡単なものだと認識すべきである。霊的な効果や現実逃避を求めるならば、その状態ゆえに静かではなく、自身をありのままに見ることではなく、自身の霊的な夢や現実的な恐怖にばかり囚われて、永遠に「あるがまま」から逃避することになる。あるがままとは、融合意識のことであり、それは自我が妨害をすることのない純真な意識存在であり、人間によるあるがままであろうとする努力とは関係のないものである。

人間は瞑想の対義語である

同一化の対象状態方法奉仕の対象
人間肉体と精神諸体のフォースに動かされている。盲目。努力自分
瞑想諸体のフォースを魂のエネルギーに従わせる。意識的。集中
観照生命エネルギー。超越。存在一なる神

人間は瞑想を足し算とみなし、すでに内在している真我を無視して、自分で瞑想を行う。これが最初の間違いだが、自身を諸体のフォースと同一化し、それを自分の行為と考えているため、前提である虚偽の「自分感覚」が維持されたまま、迷っている。

しかし瞑想は静かにしていることである。自我の行為が止んだ状態が静けさである。したがって、瞑想は自我の動き(諸体のフォース)から離れることである。間違った力や感覚との同一化をやめることである。我々は、そのような力に対して最初は無力であり、それに気づくこと、それを見ることができるだけである。やがて、騒音から我々を自由にする何かが現れる。魂である。と同時に、それが自分である。人が瞑想し、自身の騒音から徐々に自由になるにつれ、魂を知覚できるようになり、沈黙の声に慣れ、その教えに従順さを発揮し、諸体を魂に融合させることが生のあらゆる優先順位を上回るようになる。それは、魂のエネルギーが、我々が自我として今同一化しているフォースを制圧することである。これにより騒音は終わる。そして静かな状態で知られるのが普遍的霊、生命つまり真我である。

個人的な苦悩の終焉

魂のエネルギーに自我のフォースを従わせるとき、それが整列であり融合へと導く。人間の意識が最初に知る新しい領域は、魂意識である。この意識にとどまることで、人の心理的な苦しみは終わる。そのとき、彼は自分という感覚を失い、今までの自分やこれまで知っていたことや関係していると思っていたものすべてと、何の関係もないことを知る。彼はこれまで知識や信念や過去や未来や希望や悔恨や幸福や執着に生きてきたかもしれないが、それらは去る。こうして新しい自分へと生まれ変わる。それはつねに平和である。つねに調和である。したがって、つねに愛である。小さな自分は視界から消え去り、私はすべてであり、すべては私であり、その私とは外観の原因である生命である。

どれくらいの難易度なのか

難易度は、その人が作り上げたものである。「その人」とは何なのか。この何日も、私は苦悩から逃れたい個人と対話を重ねてきた。私も以前は彼のように、おそらくは彼以上に苦悩に専念してきたが、今は苦悩から自由である。誰に頼ることもなく、独学で十分だった。頼るほどの余裕もなかった。頼るだけ弱くなることは明らかだった。どのような教師が現れようが、我々の宿題まで代わりにやる者は現れない。いま、生きるべきか死ぬべきかという、極限の状態で葛藤している場合、インドのグルを探しに行ったり、タイかミャンマーの寺に瞑想しに行ったり、どこにそのような余裕があるだろうか。苦悩は目の前のものではないのか。苦しいなら、その感覚をあなたが一番知っており、一番感じているのではないのか。その感覚がすなわち答えだということがまだ分からないのか。

個人的な話をする意図はないが、私がかつて発見したことを述べる。苦悩をそのまま見たとき、苦悩が扉になり、一撃で強烈な喜びの世界に通じるというものである。苦悩など、存在していなかったのである。見たとき、なかったのである。自我が、「それは苦しむべきことであるから苦しもう」といったレベルで自作自演をしていただけである。この、ただ見るということ、ありのままを見てみようとすること、この意味が分からない人に、分かったと言ってもらえるように努力するため、信じてもらいたい。自我の知識で反抗せず、先入観なく、決めつけることなく、素直な気持ちで聞いてもらいたい。

質問者は、霊的な教師に騙されてきたと言う。騙すとは何なのか。偽者にお金をぼったくられたという意味だった。少なくとも、私は誰からもお金をもらっていないから騙す意図はないと信じてもらいたい。治療代、講演料、教えたり与えたりする対価、このような発想を持っていない。行っているのは、体を通した力であり、私であると人が見ている肉体や個人が行っているのではない。他人に働かせて、その報酬だけは自分がもらおうと主張する者は普通はいない。自分がしているのではないのに、なぜお金を取れるだろうか。自分という諸体を通じて高位の力が為したことに対しては、感謝の気持ち、ひれ伏す思い、そして兄弟姉妹と共に喜べることで十分すぎるのである。内なる無限の富を知っている者で、あるいは愛を知っている者で、迷っている兄弟のお金を欲しがる者はいないだろう。

瞑想は自身で知るものである。それは教えられる性質のものではない。なぜなら、瞑想は頭で考えることでも、その知識による方法でもないからである。ただ静かにしていることで難しいと言うならば、それは何かを求めているのであり、自身の騒音を見てみようという気はないのである。これが不真面目であり、何時間も瞑想することが真面目や真剣ではないのである。自身をそのまま見ること、そのままの自分で在ることが真剣さである。意味を間違えないでもらいたい。瞑想は競争ではない。人が三時間瞑想するなら自分は五時間してやろうという類いの遊びではない。瞑想は真剣なものである。私が問題ならば、ここにその私がいるではないか。その私を本当は見る気もないのに、苦しみから逃れたいと言われても、不可能なのである。自身が一番の近道であり、自身が即答えである。長年の修行で失敗してきた者も、ここさえ分かれば、読書や研究やインド旅行などをやめて、今いるところで静かに目をつむるだろう。自我の騒音に騙されず、静けさに答えを見ようとするだろう。私自身が静けさの源である。静けさを妨害するものは、私ではないのである。この識別力は、瞑想を続けることで徐々に容易になるだろう。そして、この目の前で、即、どのような不幸の真っ只中でも関係なく、完璧な愛、完璧な喜び、絶対の調和と平和を知るだろう。これが難しいことだと決して思ってはならない。以下は、私が何年も言ってきている内容を他のより優れた諸体が端的に要約したものである。

質問者:苦痛は受け入れがたいものです。

マハラジ:どうしてかね。試したことがあるのかね。試してみなさい。そうすれば苦しみには快楽が生み出すことのできない喜びがあることを見出すだろう。なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導くという純然たる理由があるからだ。個人の自我はその本性からして絶えず快楽を求め、苦痛を避けている。このパターンの終焉が自我の終焉なのだ。……苦痛がひとつの教訓と警告としてあるがままに受け入れられ、注意をもって深く見入られたとき、苦痛と快楽という分離は打ち壊され、それらはともに、抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快いという体験になるのだ。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」 p.296
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