不誠実

私の人格の不誠実さゆえに多くの苦しみや問題が生じていると思っております。……私はこれまで、自分の持つ無能感から来る弱さ、他を思いやる心の欠如から、多くの他人や小さな生き物を傷つけてきました。これらに対する大きな後悔と、なぜこのようなことをしてしまったのだろうという自責、その時に傷つけてしまった他の存在は苦しかっただろう、悲しかっただろう、という思いから来る悲しみにも心がさいなまれております。このような苦しみからの解消を強く求めているにもかかわらず、何の償いも済ませぬまま解消しようとする都合のいい自分を嫌悪し、解消しようとする心に対する抵抗も感じており、要するに私は矛盾した思いの綱引きの中、ひどく混乱しております。思うに自分は、この危険な世の中から自分を最優先に守らなければならないという、弱さに裏打ちされた本能的な思いと、そのような自己中心性と弱さを強く嫌悪し、自分自身を最優先にすることを良しとしない自分との葛藤を感じているのだとも思います。先ほどの問い合わせに書きました心の状況に、これらを加えた、ひどい不安と自信の喪失を感じながら日々を送っております。

個人的な不誠実は、必ずしも霊的な不誠実とは言い切れない。なぜなら、不誠実がもたらす苦悩を通して誠実の意義と喜びに目覚めるのが慣例だからであり、永遠の観点からすれば、個人の不誠実は完成の部分、誠実さの原因でしかない。個人において、苦悩は役割である。解放の間際の混乱、意識拡大への抵抗、闇を恐れる光の無知であり、それは結局のところ、破壊を前にした物質の断末魔の叫びであるが、やがてそれは栄光の産声に変わる定めにある。

我々の誰も、唯一なる全体から分離して、自身だけの特異な動きを取ることはできない。個人の行為は世界と不可分の部分であり、真我はその世界を超えており、そこにはいかなる責任論もない。物質の相互作用にまつわる責任論、つまりカルマは、自身が独立した行為者であると考える個人の近視眼的な解釈でしかなく、全体の視点から眺められるとき、それは美しくも完全な神の芸術である。

一方、分離した人間の社会では、行為が賞罰の対象となる。行為の責任は人であり、行為に応じて人は裁かれ評価を受け取り、誠実や不誠実の烙印を押される。あるいは自らにその焼鏝を押しつける。現代では、各々の意識が個人の感覚に焦点化しており、目に見える他の身体もまた独立した実体であると推測しており、被造物を動かすエネルギーやフォースについては完全に無知である。つまり責任の所在をそれ自体では無である物質に押しつけ、物質を動かした力については議論が交わされることもなく、したがって治療すべき対象も分からぬまま、悪の原因は放置されている。結果、人は自分が悪であると思い込むようになる。この種の錯覚は、瞑想でいずれも乗り越えられるものである。

我々が瞑想するとき、視界から外観は消え失せ、全ての被造物の原因であるものと一体化する。自我は神と融合する。行為者は存在せず、独立や分離はなく、すべては一なる生命の顕現である。したがって、霊的には行為は問題ではなく、行為者の感覚、つまり行為に駆り立てた力に対する無知が問題である。この一連の”私構造”に気づかない日常の怠慢が、つまりは不誠実である。同一化は失敗ではなく、同一化に気づかないことが失敗である。我々が悪や不誠実なのではなく、それらの行為をさせた原因や力を知覚せず扱いも統御もしないことが不誠実なのである。ここを理解してもらいたい。

責任の所在は肉体人間にはない。車が動くように、人間もまた燃料により動く。行為のハンドルを握るのは肉体ではなく、人間の意識ですらなく、人間を構成する質料である。肉体という車を盲目に運転しているのは諸体の質料である。人間の意識つまり魂は、諸体を構成する質料のフォースつまり”意向”と自身を同一化し、あたかも自分が運転しているやに思っている。それは思っているだけである。動かしているのは質料に備わるフォースである。このフォースは、意識を通して顕現する霊つまり真我である我々が、「意識的」に統御せぬかぎり、永遠に暴走し続ける。自己ではなく事故へと向かい続けている。

質問者は、死に対する恐怖を語られる。私が物心ついた時、人が死ぬことを知り、気が狂わんばかりに恐れた。以来、なぜ死ぬのに生まれねばならなかったのか、なぜ死ぬのに生きねばならないのか、その理由を追求し続けてきた。生まれる、物質へ生命が閉じ込められる、そこに意識が誕生し生死の概念に混乱する。人間という単位に関して言うならば、人は各々が受け持つ諸体の質料と責任関係にある。彼が受け持つ体の材料である質料が、低位亜界の物質ではなく、原子亜界の物質で活動できるようになることが目標であり、霊である我々が受け持つ物質質料のフォースに行為させられている限り、カルマの法則つまり物質を支配する法則が適用される。秘教徒の言うイニシエーションと結びつけるとき、以下の引用は助けになるだろう。

魂が多少なりともその人を統御しているということは、実際には、その人が諸体に高位亜界の物質を組み入れてきたことを意味する。人が第七と第六と第五亜界の物質を諸体から除去したときに初めて、魂は関心を持って支配するようになる。第四亜界の物質を一定の割合まで組み入れたならば、魂はその支配力を拡大する。第三亜界の物質が一定の割合になったとき、その人は道の上にいる。第二亜界の物質が優位を占めたとき、人はイニシエーションを受ける。原子質料だけになったとき、その人は大師になる。

アリス・ベイリー「ホワイトマジック 上」 p.146

質問者は、すでに魂のエネルギーを知覚している。高位のエネルギーをすでに入手している。彼が周囲に向かって「私は額に魂のエネルギーを受信している」と言うならば、頭のおかしい人だと思われるだろう。しかし彼は常識ある紳士であり、現役の弁護士である。エネルギーやフォースといった話が、目に映る産物よりも現実であることを信じてもらいたい。外皮に注目するのではなく、顕現を可能ならしめた力、そして被造物を動かす力、ひいてはそれらの力を神の原理に沿うように働きかけようとしている力を知覚し識別できねばならない。我々は現在、諸体に固有の力と、その結果である行為と自身を同一化することで苦しんでいる。苦悩の根本的な解決方法は、識別された高位と低位のエネルギーを調和させることである。これが融合であり、人々がサマーディーと呼ぶ意識を可能にさせる理屈である。それは神秘的な意識ではなく自然の調和意識である。これにより、個人の責任感覚は消える。過去がどうであれ、罪悪感や後悔、贖罪や自責の念とも無縁になる。彼は行為をさせた力と和解し、全体から部分、永遠から単位、完成から一箇の過程を見て、その意義と理由に目を見開き、神が愛であり完全であることに感動するだろう。

前回の記事から問い合わせが来た中で、自身の苦悩に関するプライベートな文章の直接的な掲載を快諾したのは今のところ彼だけである。自身の弱さや至らなさを開けっ広げにすることに対し、「何の問題もございませんので、いかようにも使用してください」と言える人格がなぜ誠実でないと言えるだろうか。少しずつ書いていくつもりである。彼は遠くない将来、苦悩から自由な意識に帰るだろう。

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