すべてを癒す内在の無際限なる無について。頭で考え、頭で追いかけると、頭の中で迷うだろう。われわれでありうるもの、このすべてを自発的に服従させる力、神聖なるエネルギーや波動がある。これは、静かでなければ意識のうえにのぼることすらなく、自我意識で構成される世界にあってはほとんど知られていない。それは隠れ、存在していないことになっている。実在と非実在が逆転しているのだが、人としての経験を通して、人もまたやがて非実在に関心がなくなり、関心をなくさせた波動や存在の方に集中が注がれはじめるようになる。その過程で瞑想が使用される。やがて原因の世界が明らかになり、目に見えぬ力学や物理学を人知れず扱うようになり、肉体はたとえ結果の世界にあっても、意識は原因の世界を意識したままでいられるようになる。生きながらの瞑想であり、これが人の生というものを喜びに変えてしまう。沈鬱や陰影は去り、美しい音と波長が我みずからのなかで奏でられている。なにものに比ぶべくもないこの喜びが、万物のまさに根底にあり、また私じしんである。この果てもない至福のリズムにあわせて踊りが踊られ、永遠の宴がひらかれている。旅の巡礼者はおのれの物語に夢中であり、道中下を向いており、星々の運行に気づかないように、この聖なる祭りに気づいていない。演じる時間が長過ぎて、役に取り憑かれてしまった魂たちに、魂じたいを気づかせようとする働きがあり、その逆へ引きずり降ろそうとする働きもある。人間においては、後者のリズムへ追従することは役目ではない。自我とは、正しいことをしに行った人が、悪いことに夢中になるようなものである。そのため苦痛という対価を支払うことになり、帰りたい、再び自由になりたいと結局は願うようになる。
しかしなぜ、こんなにも多くの瞑想法があるのだろうか。ひとつの答え、ひとつの命があるだけならば、いかなる方法もその波長の認識を妨げるだけである。頭ではなく、澄んだ意識に唯一なる答えが見つかるのであり、知識や方法や動機や欲求といった騒々しさが凪ぐときのみ答えは知られるのだが、とはいえ、われわれが瞑想をするとき、おそらくいつも、瞑想前と瞑想後で、意識や静けさに違いを感じるはずである。そうさせたのはわれわれではなく、瞑想を通して、内なる力がわれわれに働きかけたということを、はたして否定できる瞑想者はいるであろうか。ほんのわずかであれ、瞑想中に意識が変わり、露わにしえぬなにかがわれわれに働きかけ、波動を高みへ安定させたのである。この神秘にして事実であるさまに目をみはるならば、いったい、どこに方法があったであろうか。方法を奉る自我を、真我が静かにさせたのを瞑想で目撃したのではなかったか。かくして、われわれは何もしないという技術を習得することになる。神聖なるエネルギーと調和し、融合し、果ては一体化し無にほほえみをたたえさせたのは、無であるそれじたいである。瞑想はすでに存在しており、なんであれどこであれ行き渡っていることに気づき、この甘美なリズムにただおのれの波動を委ね憩うことである。ただ感じられるか、感じられないかであり、その感受性を妨げているものがわれわれじしんであることに気がつくかどうかである。本当に気づくなら、もはや動けないはずである。行為というものの罪が知られたとき、それじたいが行為者を消すのではあるまいか。
瞑想はあちらからやってくる。瞑想できる自我は存在しない。座って静かにしていることはできても、われわれに本物を教えにくるのは本物じたいである。われわれを静かにさせ、露わにしえぬものの覆いを剥ぎとるのも本物のみが為しうることであり、それは自我のどのような努力つまり抵抗とも無関係である。いまいちど真剣に考えたい。すでに存在しているものを感じられるか否か、それだけである。挫折や気弱な信念を無視し、内なる実在を純粋に信じねばならない。彼だけが直接的な教師である。彼は今もわれわれに働きかけている。その力や愛に背を向けているのは、われわれが下等な起源に由来する波動に慣れ親しみ、下等な波動が生のたまり場になっており、心の水準器が狂わされているからである。ここにどのような責任も批判もない。ただの事実である。ならば、その事実である、われわれを振り回す波動を知ることが、すなわち障害を知ること、錯覚を打ち破ること、愛や一体性を知ることである。ここを見るならば、われわれ自我は、われわれじしんを踏み越えることを恐れていることに気づくだろう。おのれにしがみついていることを知るだろう。そのため自分や心といった領域に閉じ込められている。それでも、瞑想し、惑わす事物に目をつむり内を信ずるとき、実在はわれわれに働きかけてくれている。ゆっくりだが、確実に自我を溶かす。後半、急速になるだろう。問題なのは、最初はそれが感じられず分からないことである。しかし、ここを誰もが乗り越えてきた。やがて、自我意識がどんなものであったか、純粋に思い出すことすらできない意識に保護されるだろう。