真我への服従

瞑想が教える超然は、日常の中でも維持されねばならない。それは絶えざる無関係であり、絶えざる真我との同一化であり、絶えざる観照であり、絶えざる孤立した統一である。個人的な主張、不平不満、出来事に対する反応、これらからの自由である。それは真我による三界のフォースの全的な統御である。

瞑想が本当に有用なのか時々分からなくなる。疑念がわくのだ。

有用どころか信用できるのは瞑想のみである。続けるうちに至福が確信をもたらす。

なぜそう言えるのか。

自我よりも真我の感覚が強くなるから。正しい瞑想を行うことで自動的にそうなる。正しい瞑想とは内なる者が教える瞑想のことである。真の自分以外に信用に値するものはない。

言い方が気になる。ならば逆に、自我の感覚が強く真我の感覚が弱いといった状態もあるのか。

長いあいだその二重の感覚を過ごす。徐々に真我の力が強くなる。最終的に自我は真我に抗えなくなる。つまり何が真我か間違いようがなくなる。

真我の感覚は瞑想で自覚できるようになるのか。

最初は瞑想の時に感じ、日常だと自我に戻る。この状態が徐々に逆転する。そのあいだに物事の真偽、正しい在り方を教えるのは真我である。彼にのみ自我は頼ればよく、外側には何も求める必要はない。

最初は外に指針があるはずだ。瞑想に関してあらゆる本があり、その数だけ教えがある。何を学び、誰に従えばいいのか判断基準があるだろう。

どの教えが正しいかはその人による。私の場合は身に起きていることを調べていた。病気なのか調べていた。どの医者もどの医学書も答えなかった。するとアリス・ベイリーの本には私の「症状」が正確に描写してあった。だから「現実世界」ではなく、この世界の知識を学んだ。症状の緩和に瞑想が有効だった。

症状とは何だったのか。

唯一なる生命がある。これは純粋なエネルギーである。この流れを自我が妨害するとき摩擦が生じ、ひどく苦痛を覚える。一なるエネルギーを分離した自我が誤用しないようにすることが唯一の治療法だった。つまり合一しなければ苦痛だったため瞑想した。

それが二重の状態なのか。

普通は自我意識だけがある。次に真我が送り出す波動と接触するようになる。すると、真我が自我を従わせようとしていることが分かる。自我は自我としての身口意が苦痛になる。つまり間違っていることを知る。だから真我に従うこと、真我の波長におのれを合わせることが唯一の解決法になる。その方法が瞑想である。

真我を感じられない場合は逆に瞑想すればよいということか。

瞑想は真我が引き起こすものである。まだ感じられずとも、瞑想を続けられること自体が、自我の感受性を示している。普通は続かない。家で孤独に座すより遊んでいた方がいいからだ。続いていること自体が証明である。

しかし何年も瞑想して何も感じないのだ。

「何年」で瞑想が分かるなら覚者だらけになる。この事実を自我は嫌がる。短期間で効果が欲しいと言う。何をすれば貰えるのか方法と確約が欲しいと言う。しかし瞑想を続けることで必ず何らかの確信が得られる。自我は少しずつそれを頼りに前進する。気づいたら昔では考えられなかったような状態が当たり前になっていることを認めるだろう。そしてその状態そのものが瞑想を強いてくるだろう。こうして自我は確信を深め、より自発的に真我に服従するようになるのである。

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