瞑想における主体と客体

私は現在瞑想をしていて、何か怒りや悲しみ、その他微妙な情緒的反応がある場合、それらを知覚・認識し、それぞれ「怒り」「悲しみ」「自己憐憫」「欲求」「妄想」など心の中でラベル付けし、これらをアストラル・フォースであると認識したうえでに巻き込まれない(同一化しない)ようにしております。アストラル・フォースの識別とは、私がやっている、情緒的な反応が生じた場合、それに気づき、その内容を分析しこれをアストラル・フォースであると認識する(同一化しないため)という手法でいいのでしょうか?

質問者

これは間違っている。自我の認識とは、そもそもラベリングである。人は言語や概念がなければ思考できない。これは、命名された用語が指し示す概念で納得しようとする低位具体マインドの試みでしかなく、瞑想はこれらの動きから自由になる過程である。どのようなラベル付けも、純粋な認識ではなく、動機を持つ(この意味で不純な)目的のための自我の努力である。これはマインド内で執り行なわれる自己会議であり、出席する者はみな自分である。前回の記事で言えば、「フォース同士の衝突」の範疇に入る。来たりては去るこれらの幻影に、注目によって力を与えてはならない。

この場合、あなた自体がフォースであることを認識し、このような苦悩から逃れる必要がある。つまり何もできないということ、何もしないでいいということに大いなる癒やしを見出す必要がある。あなたは変性させられる側つまり客体なのであるが、あなたの自我意識は現在、何かを変性する主体であると自己を見なしている。そのため、「内容を分析」したり、頭で何かを行おうとするのである。この過程や時期は誰もが経験するため、完全に無意味とは言えないが、短期間で克服しなければ脱出が難しくなる。自身が築いた想念形態に取り囲まれて、自身の世界から出られなくなる。これはしばしば知的なタイプの自我が犯す過ちである。

あなたは魂のエネルギーを認識している。つまり正しい方の自己のエネルギーを肉体脳で認識している。これについて以下のようにあなたは書いている。

私が眉間に軽くでも意識で触れると、まさに疼きともいうべき感覚が知覚されます。それは眉間の表面よりも少し奥側で、何かが蠢く感じです。感覚としては、疼きや蠢くといった表現が一番近いのですが、その他何か重みのあるくすぐったさや、痛みとくすぐったさの中間みたいな感じもあります。範囲としては眉間が多いですが、この感覚が強いときは、鼻根の上部のあたりに強い感覚が生じ、普段感じる眉間の疼きの位置よりも、深い位置(脳側?)にまで、疼くというよりもっと重たい感じの刺激を感じます。これも比較的頻繁にあります。瞑想を始めてほとんどありませんが、以前は顔がよじれてしまうほどの範囲と強い疼きを感じることもありました。この時の感覚は痛みとくすぐったさの中間みたいな感じで、拳で顔をたたいて、疼きを散らさなければとても我慢ができませんでした。最近は瞑想を始めると疼きが生じ、やめると短時間で消失します。普段感じる疼きを長時間保つと、頭が重くなる感覚があるときがあります。この時の感覚はどちらかというと、どんよりとした感じの不快なものです。この重たい頭痛にも似た感じは、定期的に意図して瞑想を始める前は、ほとんど感じなかった感覚です。疼きを感じているときに、指で眉間をおさえると、いったんは止まりますが、指を離すと再開します。眉間の疼きは全体として、快とは言えないですし、不快とも言えません。ただし、少なくとも眠りに比肩される心地よさはありません。瞑想を始める前の時期は、刺激が強かったため、収めるのに苦労していましたので、その意味で不快でした。刺激自体が不快というわけではありませんでした。Author様の表現から連想されるような、軽快なリズム感はなく、リズム感といえば、刺激が強いときに眉間の表面でジンジンするような感じです。これは関係ないとは思いますが、頻度は圧倒的に低いのですが、似たような感覚は、たまに鎖骨にも生じます。

質問者

これは、魂がパーソナリティーの統御を開始したときに起こる現象である。あなたはまだ自我意識であり、マインドで高位のエネルギーを知覚し始めたばかりであり、どちらが正しいエネルギーであるかを識別しようとしているところである。少なくとも魂は、あなたに識別させようとしているが、あなたは名や形を持つ自身に愛着が強く、そちらを自分と見なす傾向に圧倒されている。しかし、自我とは思想でしかない。感覚もまた、マインドによる解釈でしかない。深い眠りの時のように、マインドが静かになっているとき、これらは存在できないことを常に覚えておく必要がある。

あなたは瞑想中もしくは日常のいずれかの場面で「疼き」を認識し、「顔がよじれてしまうほど」の強度や影響範囲を確認してきた。そして――気づいているかは別として――それに抗っている。抗わないという意味を理解し習得するという側面からすれば、ベンジャミン・クレームが言うように「それに対して何もする必要はない」。なぜなら、まだ逆転しておらず、魂の側から扱うようにはなっていないからである。自我から魂というベクトルで概念化するとき、我々はその疼きやリズム、つまり波動に反抗せず従うことができるだけである。現在、あなたがフォースであり敷居の住者であるが、まだ自己と非自己を逆転して考えているところにエネルギーとフォースの衝突がある。

瞑想を始める前、魂の疼きは、「拳で顔をたたいて、疼きを散らさなければとても我慢ができませんでした」。そして「最近は瞑想を始めると疼きが生じ、やめると短時間で消失します」とあるように、瞑想によって魂が満足したことが理解できるはずである。これはあなたが体験したことであり、否定の余地はない。魂はいま、正しさを押しつけている。

瞑想中、魂があなたというフォースの総体に働きかけているとき、あなたはそれに気づいていることができるだけである。自我と魂は、意識においていずれは逆転する。あなたがあなた自身に遡り、つまり魂が魂自身の界層に近づくようになるにつれ、エネルギーの性質とフォースの性質が全く異なることを、今度はエネルギーの側から理解するようになるはずである。それまでは、自身がフォースであり、自身が統御の対象であることを知り、何もしないという瞑想の基本の意味をここに見出すべきである。自我という自身で何かをしようとすることは、「出過ぎ」である。速やかに眉間に意識を戻し、魂の疼き、その波動が自身を調律することを知り、その力におのれを明け渡す必要がある。

ここで訂正したい。私は波動に対しリズムという単語を紐づけたかもしれないが、そこに「軽快」を意味する意図はなかった。波動は完全に一定のリズムではない。波動の快不快は、苦痛と同じで、それに従ったとき快であり、反抗したとき不快になる。このようにして、苦痛が事の正誤を教えるのである。

まとめると、あなたは現在、魂がパーソナリティーに興味を持ち始めた序盤に相当するが、24時間途切れることのない波動の流れを確立しなければならない。まだ、自身を肉体や精神と見る癖があるゆえ反発しており、エネルギーが自在に流入することができないでいる。自身が通路でしかなく、その自身が逆転して魂になったとき、かつてのあなた、つまり諸体は道具となり、エーテル体に存在するフォース・センター、この場合は眉間のアジュナ・チャクラから、いま魂がやっているように、魂のエネルギーを必要な箇所に差し向けることが意識的に可能になる。このとき、あなたは神秘家から秘教徒になり始める。瞑想は宗教的ではなく科学的になる。無意識は意識になる。無知は知恵になる。犠牲者ではなく働き手になる。しかし、エネルギーを法則に則って使用できるようになるまでは、このエネルギーに在り方を習い、波長を合わせ、振動率を調整し、内的なメカニズムが成長するまで瞑想と魂にひれ伏す生活を送らねばならない。これが真の謙虚さ、真のサンニャーシンである。自身がフォースではなくエネルギーであることを知るとき、そしてエネルギーになるとき、マインドはやがて超越され、主体と客体は去り、エネルギーが生命であり、すべては生命であり、すべては私であり、私はすべてであるという啓示に到達するだろう。

瞑想つまりマインドの統御。これによって、魂が低位の器を統御し魂の領域の啓示を可能にするメカニズムが創造される。

アリス・ベイリー「魂の光」 p.386

人々が神をエネルギーとして、そして自分自身がエネルギーの一つの様相であると認識し始めたとき、またエネルギーを用いて意識的に働き始め、エネルギーとフォースの違いを時空間内で認識したとき、さらに魂がより偉大な機能的活動を開始したとき、生命の事実は新しいほとんど圧倒されるような形で認識されるであろう。

秘教治療 下」 p.244
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