瞑想の実質に至る形式

瞑想についてですが、「苦悩の終焉」の質問者や多くの読者もそうだと思いますが、「瞑想」という言葉が指す形式が分からないのだと思います。つまり、私もそうですが、瞑想とは、何らかのメソッドや、目的に達するための方法というイメージもしくは先入観があり、そこから来る形式があるのではないかとの思いがあるように思えます。ようするに瞑想の実質、同一化をしないこと、静かにしていること、高位の波動に親しむこと、これらに至る方法ないし形式があるのではないか、との先入観があるように思います。Author様がたびたび仰られているのは、瞑想にはそのような決まった形式はなく、いきなり実質に至るものである、と私は理解しております。そしてその実質に行くためには、それぞれが独自に研鑽する必要があると理解しております。

質問者
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前提

瞑想とは、内なる集中が持続された状態であり、観照へと導くマインドの統御過程を指している。集中が維持されるような段階に達している者は、短い期間で観照もまた達成するものである。したがって、この段階に至るまでの基本や過程の方を私は重視して書いている。なぜなら、多くの方が(欲望を優先して)基本を飛ばそうとしているか、知らないからである。瞑想できないのは基本を知らないからである。

瞑想と集中

集中の持続が瞑想である。集中とは、集中しようとする個我の努力とはほとんど関係のないものである。魂を認識しておらず、自我の感覚だけが存在し、その自我で集中しようとするならば、それはマインドと脳の間で行われる痛めつける相互過程でしかなく、人を頭痛や狂気といった肉体や精神の災難へと導く。

瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとしている。

アリス・ベイリー「魂の光 」p.402

瞑想以前に、我々は正しい動機と人格を養っている必要があり、これにより魂との通路を開き、アストラル体を賢明に統御し、その過程でエネルギーとフォースの関係に習熟している必要がある。なぜなら、自我単体では瞑想も集中もできないからである。というのも、自我とはフォースの集合体でしかないからである。集中とは、高位のエネルギーが低位のフォースを制圧し、その平安の中に個我というフォースの単位を落ち着かせた状態である。

魂とマインドによる瞑想

したがって、魂とマインドで行われるのが瞑想である。我々の意識は、マインドを含めた低位我のフォースではなく、高位我つまり魂のエネルギーに吸収され、集中されている必要がある。世の中の瞑想は、しばしばこの基本を無視しているように見える。画一的に長時間の瞑想をさせたり、初心者に集中させようとしたり、教える者がその危険性を理解していない場合が多いように見える。それは、教える者が達成していないからではないだろうか。書物に書いてあるからそれが正しいと思っているか、彼らの師や信奉する教えの体系がそう伝えるからそれが正しいと信じているが、まだ自分では証明していない。

秘教的に言えば、変性とはフォースをエネルギーに変性つまり変化させる方法である。これは(弟子に関する限りは)パーソナリティーのフォースを魂のエネルギーに変性、変化、強化させることである。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」 p.313

例えば、個人的な苦悩はアストラル界の課題(アストラル・フォースの変性課題)であるため、瞑想より簡単なものである。瞑想は一つ上の界層、メンタル界の課題である。私の経験では、メンタル界の集中が達成される遥か以前に、個人のアストラル体は統御され、個人の苦悩もまた消滅しているものである。アストラル体が統御されているということは、苦楽や快不快といった情緒や感情や欲求性質に対して無反応になっている静穏な意識状態をかなり達成したということである。このとき、弟子の意識は外へと向かう傾向を失いつつあり、外界や自我の反応から守られた内なる魂に集中しているはずである。よって、個人的な楽しみや苦しみといったものは総じて乗り越えられており、また寝ても覚めても魂の性質に没頭するようになっており、自然に真我への意識の固定つまり集中を可能にさせる力が生じるようになっている。

第三イニシエーションの前に行わなければならないことは、個人的な観点を全体の必要に完全に溶け込ませることである。そのためには、魂が具体マインドを完全に支配することが必要である。

アリス・ベイリー「イニシエーション 」p.124

これらの過程は、内的なメカニズム(チャクラつまりフォース・センターやアンターカラナなどの器官)の発達と共に、きわめてゆっくりとした漸進的なものである。いくつかの意識拡大は、これらの中で突然訪れるが、全体的な瞑想生活の過程自体はゆっくりとした着実なものである。したがって真我の実現が一気に起こるものかと問われたとき、ラマナ・マハルシは、「太陽は突然昇るだろうか」と問い返している。

至る形式

質問者の言葉に戻ると、「至る形式」はない。特定の方法を一様に定められるものではない。各々の段階、メカニズムの発達、残っているカルマ、諸体の精製度と光線構造など、考慮すべきものが個々において全く異なるからである。したがって、一般的に必要な基本事項、またなぜそれが必要であるかの理論を述べることができるだけである。以下に質問者の言葉から抜粋し説明を加える。

同一化をしないこと

これは過去に眠気で喩えた。どのような苦悩も、眠気には勝てない。これと同じで、どのような自我も、魂には勝てない。魂と接触し、魂のエネルギーの流入経路として諸体が従っている必要がある。ベンジャミン・クレームは、魂のエネルギーに対しては何もする必要がないと言っていたが、ジュワル・クール覚者は、それが「どれだけ途方もないものであるかを認識している人はほとんどいない」と言っている。私は前者の言葉を先に見たため、魂のエネルギーを軽視し、(本質的に)何年か無駄にした。最初からそれが途方もないものであると知っていたならば、多くの時間を無駄にすることもなかっただろう。人々が悟りや真我実現と呼び秘教徒が第三イニシエーションと見なしている変容が起きるまでは、魂のエネルギーを用いて我々は諸体を統御するということを覚えておく必要がある。魂よりも上の界層、つまりブッディ界のエネルギーを真に使用できるようになるのは第三イニシエーションの後である。

静かにしていること

私もそうだったが、瞑想という言葉に拒否反応を示す人は多い。あるいは、瞑想が難しいという先入観を持っている人は多い。この場合、「ただ静かにしていること」と言うようにしている。それは、私が目を瞑るようになったとき、そう思ったからである。私は宗教的な人間ではないという思いが強く、決して瞑想しようとは思わなかったが、静かにしていようとは思った。すると、エネルギーとフォースの間の本質的な齟齬に由来する苦痛も解消されたからである。当時はこれらの知識はなかったが、静かにしていると楽になることは事実であり、一日に数回、定期的に静かにしていないと、自我意識に戻ることができなかった。つまり日常生活が送れなかった。これを私は病気だと見なし、悩んでいた。アリス・ベイリーの書物にこれが描写されており、霊的な意味が記載されており、それが自身の内部で事実であることを確認できたため、助かったのである。静かにすることで、我々は高位の波長に合うようになる。

高位の波動に親しむこと

頭部の上半球(と言わせてもらう)を覆い、リズミカルに刺激を与えてくる波動がある。この波動に最初は習い、従う必要がある。この波動つまり魂のエネルギーが正しいのであり、我々をいま動かしている諸体のフォースは物質質料の低位フォースであることを理解し、両者を識別することが瞑想の基本になる。

高位メンタル・レベルから発している魂の推進するエネルギーに敏感にならなければならない。ある進化段階が達成されたとき、このようなエネルギーは、三体からなる人間のフォースを統御するよう努めるようになる。

アリス・ベイリー「新しい時代の教育」 p.106

これらに至る方法ないし形式があるのではないか

基本だけが共通している。最初に正しい動機と正しい性格である。不純な動機では、瞑想は我々に災いをもたらす。怖がらせる意図はないが、危険な目に遭うぐらいであれば怖がらせていた方が良い。利己的とは、諸体つまり物質のフォースに従っているという意味であり、高位が低位を支配するのではなく、低位が高位を掌握するとき、人は悪魔的な存在になりうる。霊的な力を個人的な欲望や達成のために使用することで破滅することになる。その間、多くの兄弟を巻き込むことになるだろう。これは避けられねばならない。自身から不純な動機・要素を除去するよう努める必要がある。この時期、まだ魂のエネルギーは使えないだろうが、それが正しく安全であることを知る必要がある。なぜなら、まだ自分のために使用する危険性があるからである。進歩は遅いが、堕落は速い。

魂のエネルギーが頭部のセンターから流入するようになったならば、自身にはまだ時期尚早である要素が多分にあることを確認しなければならない。つまり、そのようなフォースを統御するために、魂のエネルギーは最初に使用されねばならないのである。悪とは物質に向かう傾向である。人間においては、物質界・アストラル界・メンタル界の三界の低位物質のことである。これらの引力と誘惑に負けているとき、分離した自我意識で人は苦楽を味わい経験を積む。引力と拮抗するようになったとき、人は相反する対をなすもののバランスを取るようになる。引力が失われ魂に吸収されつつあるとき、人は瞑想できるようになる。また眉間を通してマインドを統御し集中できるようになる。この集中の持続が瞑想であり、瞑想の持続が観照つまりサマーディーである。

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