見習いを卒業した弟子たちは、自身が魂であることを認識しているが、その初期段階では、個人が魂を認識しているということに気づいていない。つまり、まだ個人的観点に生きているということは、まだ個人に生きており、魂ではないことを理解していないことになる。瞑想で魂的な領域に入れるようになり、そこに人間の人知を超えた霊的至福を味わうことが可能であるかもしれないが、味わうとは、味わわれるものを知覚していることであり、味わう者と味わわれるものの間に違いや隔絶がまだ存在しているということである。二は一になっていない。
瞑想の対象をはっきりさせたほうがよいであろう。魂である。多少熟練した者は、「私は魂を認識しており、魂と接触している」と言うが、その「私」と「魂」が別のものとして認識されていることに気づいていない。つまり、魂を私が感じているだけで、私と魂は一体になっていない。魂との接触とそれに続く高位の至福という感覚知覚にかまけて、個人で魂を味わうことが瞑想になっており、その領域があたかも終点であるかのように錯覚している者も少なくはない。ラマナは、この領域をよく注意していたと思う。「それは確かに一つの霊的進歩を示すものではあるが」などの言い方をしていたと思う。もう一度当たり前のことを言う。個人の瞑想の対象は形態内の魂である。魂を味わい霊的至福に酔い痴れていても、まだマインドは生きており、想念は噴出し、外へ向かおうとするマインドの傾向はまだ完全に統御されておらず、集中すなわち意識の方向づけの対象が魂になっておらず、魂の幸福な感覚に浸っている者は、「浸る者」として、自身がまだ不完全さに停滞しているだけであることを認識しなければならない。
普通の瞑想者に対してであれば、魂的な平和と調和の領域を味わい知ることを人間の大いなる進歩とみなし、その領域に入れるようになった者の前進を私は喜ぶが、初期のサマーディー的な至福感に絡め取られて、それが瞑想だと思うようになり、まだ思ったり知覚したりしているマインドの活動に真の集中が妨げられていることに長年気づかぬままにならぬよう注意を促したい。
前にも、そのような段階の時期、私がいかにして外へと向かうマインドの傾向を統御したかについて解説したことがある。魂を認識したならば、外つまり想念ではなく、魂自体に意識を向け直し、そこに一種の調和感が戻ったとき、「戻った」と意識の中で言う。最初は間髪をいれず、すぐさま外(想念)に連れ出されるため、「戻った」と言った後には、「戻っている」という確認の言葉が一秒置きに必要である。すると前に、そう言っているのはマインドではないかと質問があった。このような意識の段階のマインドと、その質問者の意識のマインドには違いがあることをはっきりさせねばならないだろう。普通の者は低位マインド(具体マインド)しか知らない。人間がマインドとか頭とか言うときは、この具体マインドのことを指している。「戻った」と言うときは、魂へと向かい落ち着いたことを、そのようなマインドが静止した後の高位マインドが言うのであり、瞑想つまり魂への集中を維持させるときに使用されるのは、具体マインド以上のものである。こうなると、「戻った」などと言う必要もない意識に留まるようになり、意識は意識自体に安らぎ、意識は魂の世界をありのままに見ることが可能になる。そこには、我々の頭や、頭が認識するものや、低位の感覚知覚や、個人意識などは存在せず、分離の壁は取り払われて、意識は一なる我へと完全に集中し安らぐ。これを書物ではサマーディーと呼んで大袈裟に言っているが、サマーディーと観照は同じものであり、そこにはもはや観照者も存在していない。いわば、低位の具体マインドによる妨害がないことで、人間の魂が超魂(オーバーソウル)に吸収された存在の状態――仏教が「無」と呼ぶものが指し示すもの、キリスト教が「無一物でいてすべてを所有しています」と言うときに指し示すもの、神の意識が達成されるのである。
以上の瞑想法を間違って頭で解釈する場合、「戻った」は努力になるだろう。魂と調和した感覚があるときだけ「戻った」と言うのであり、それは具体マインドが統御されているときにだけ言えることである。まだマインドは生きているが、人間が知っている方のマインドは静止して魂に安らいでいる。このときだけ「戻っている」と言うことができる。しかし、繰り返し具体マインドは復活し、想念が出て、魂へと向かう意識は想念という外へと連れ出されるゆえ、間違った方向に意識が向かないように、たゆみなく魂に意識を向け直す必要があるのである。そうするうちに、突然、魂の方向づけが不要になり、意識が魂に何の意図もなく固定されるようになり、魂の領域が意識的眼前に開示されるのである。それは我々の頭からすれば一である。頭に対しては他に言いようがないから一体化などの概念で説明しているだけで、それはただの自然状態であり、それだけが人間が知るべき自然すなわち調和である。これを本ではサマーディーと言っており、聖人が達成するものと誤って言われているものである。ジュワル・クールは、このような意識つまり観照は、弟子の場合は早急に達成すべき段階にすぎないと言い、初心者意識とみなしている。彼つまり覚者は、第三イニシエーションを最も初心者のイニシエーションだとみなしており、第二や第一をイニシエーションとはみていない。それは、まだ個人が生きているからである。
個人が魂に向かうことが瞑想である。しかも向かっているのは魂である。魂が魂に向かっており、人間の魂と普遍的な魂が同一のものであることを知ることが瞑想の目標つまり観照である。これが一体性の最初の認識である。私はこういうことを、自分を個人だと錯覚して苦しんでいる人に教えたいし、魂の位置にいち早く戻ってもらいたいと願望しているゆえ、興味を持つ者に話したり、このような書き物をしたりと、おそらく二十年ぐらい活動を続けている。何の努力もなしに。願望は努力ではない。魂の願望は人々を個人意識から自由にさせて魂に引き戻すことである。すべての意識単位を魂の領域まで高め戻すことである。肉体は死に、消えて無くなるものである。それはなんら実在ではないゆえ、無価値である。価値があるものは、永劫とも呼ぶべきあいだ、無数の肉体を纏い、その都度の肉体意識を纏う転生する自己、つまり魂の認識が価値あるものである。そこに意識が帰れるぐらい、諸体の質料を瞑想と奉仕という魂の呼吸を通して高き波動によって引き上げ、諸体の質料の等級をより粗雑なものからより精妙なものへと引き上げ、妨害する素因を滅し、理を練る(頭を)滅し、個人ではない本来の自分を見出さねばならない。見出しさえすれば、この世や個人からは切断されるだろう。神の領域に引き上げられるだろう。個人の問題はなくなるだろう。個人を養うのは神になるだろう。世界と私は美しくなるだろう。
ちょうど私が、人々の意味における考えることや、考える努力なしに、まったく疲労することもなしに、魂を通し、次にエーテル体と肉体を通し、神のエネルギーを滞りなく循環させることで至福のまま自動的に書いているように、努力を伴う瞑想がいかに間違った流れ(エネルギー)の扱い方であるかを認識して、エネルギー自体はすでに流れており、そこに異を唱える個人さえいなければ、無努力で、最短距離で、最高力が最高の仕事をそれ自体の力で行うことを知るならば、目から鱗は落ち、自由になり、自然になり、神の意志の一部となり、首尾よくすべてが達成され、その副次的要素として我々の霊的進化も含まれることになり、ますます良き方向に進み、ますます神の栄光の何たるかを、また神の道の偉大さを、神の目的と計画の素晴らしさを知りゆくであろう。そのとき、我々の焦点は魂ですらなくなり、霊つまり生命自体になるであろう。瞑想の目標の観照は、睡眠よりも遥かに優れた目醒めたリラックスである。睡眠は意識が途切れるが、観照は目醒めたまま、天上このうえない平和と調和と至福を教えるものである。我々が瞑想で何らかの努力をしているのなら、力の使い方がまだ分かっておらず、明け渡しておらず、自分を間違えており、何もしなくていいこと、するのは神であること、魂は「する」と「起きる」のただの傍観者、目撃者にしか過ぎぬことを理解していないことになる。個人で生きることは辛いことである。努力は辛いことである。手放せば苦闘は即時に終焉する。したがって、瞑想は難しいものではなく、難しくさせる頭を放棄するだけという、結果として最も自然で簡単なものである。これは謎ではない。謎にさせる頭の欠落である。我々はこの欠落を智慧と呼んでいる。
