神の喜劇

家族がいるから夕食のときなど何かしら見ることが多い。一昨日ぐらいだったか、トッテナムが降格しそうで今度はデ・ゼルビになったという話でサンダーランド戦を見ていると、ロメロが怪我で退場となったとき、泣いているのである。それで妻が可哀想に思って、「どんな気持ちなんだろう」と言っていた。どれだけ辛いのだろう、という意味なのだろう。

劇中に申し訳ないが、この泣いている男は単に演技中である。私からすればもらい涙の対象ではなく笑いの対象である。なぜなら、肉体個人が感傷に陥り観客の前で泣きそうな顔のパフォーマンスをしている己――最も大事な時にキャプテンなのに怪我で試合に貢献できなくなった可哀想で被害者的な自分を演じ、アクシデントゆえ自分は責められるべきではないことを分からせるために悔し涙という技を思いついている自分に酔ってはいるが、その背後の観照者つまり真の自己は、まったく余裕で、何の影響も受けておらず、降格しようが、SNSで責めを負うことになろうが、あるいは怪我で長期離脱になろうが、その怪我ゆえにキャリアに終止符が打たれようが、全くそのようなこの世の話から孤立して、背後の私つまり観照者は徹底して自由で不動で無関心で無関係で神ゆえに喜び溢れていることを知らぬふりをしているから微笑ましかったのである。本人は気づいていないが、心の深いところでは気づいている。自分が安心で、なおかつ演技をしていることを、心の深いところでは知っており、それはほとんど悪巧みのようなものだが、そのことに浅い心の方ではまだ気づいていないだけである。だからどういう気持なのか。情緒に圧倒されているだけである。その背後に圧倒されておらず、酔ってもいない自己が、その酔っている者をただ傍観していることが分からぬであろうか。そっちが自分である。下手くそな演技をしている男の方ではない。これは誰に対してもあらゆる場面で言えることだから言っている。

私は冷徹だろうか。冷酷だろうか。人の気持ちが分からぬの嫌な人だろうか。悲しい場面で悲しまれるべき者を笑うとはどういう人格なのだろうか。私は人格ではない。昨日は誰かに人格者だと言われたから、それは人格を持たないからだと答えたが、関わってもいない。ならば、魂が冷徹で冷酷なのだろうか。魂の背後の神もまた冷酷なのだろうか。フットボールどころではなく、もっと過酷で悲劇的なシチュエーションが、毎日、毎瞬、いたるところで無数に存在している。神は何もしないのか。見ているだけなのか。どこもかしこも戦争中ではないか。国家であれ個人であれ。大いなる分離という異端が人々の心を蝕み、破壊や殺人や流血や、あるいは心を傷つ合うというという忌まわしき惨事が常に起きているのだが、その背後で神は冷酷なのか。神は我々を見捨てたのか。世界の主は、世界の惨事に何を思うのか。一言で答えると、何も思わない。

個人は、背後の観照者をまず発見すべきである。それを魂と呼んでもいいだろう。ただ見ている者、ただ傍観している者、いかなる時も、いかなる場面でも、動じずに必ず余裕である者――この余裕は、自身が安全であることを知っているから存在している。映画の鑑賞者が、殺人や危機のシーンで叫ぶことすらある。映画の鑑賞者のくせに、あたかも我が身に起きたかのごとく、映画の世界に入り込んで疑似体験を味わい、その味覚や触覚を楽しんでいるのである。ハラハラしたとか、まだ心臓の鼓動が正常じゃないとか、この世で体験したいことを映画を通して味わっているのである。なぜ人は調和ではなく殺人に関する映画が好きなのか。マフィアだとか、ヤクザだとか、無敵の殺し屋だとか、不気味な連続殺人犯だとか、あるいは心霊現象や祟りだとか、もっとマニアックにな者は実際のグロ映像を見たりだとか、「怖いものの中の喜び」を与えてくれる刺激物をなぜ好むのか。怖い目には遭いたくないが、怖いものは見たい。それは、怖い体験を実際はしたいという意味である。「怖いもの見たさ」という欲求は、怖いものを体験したいという隠れた体験願望である。だから、行き過ぎると実際に自分で体験することになるだろう。それが嫌ならば、「君子危うきに近寄らず」という諺が指し示す真理を知り、現実になる前に見たり関わったり考えたりすることを完全に止めることである。我々は、恐怖というアストラル的な欲求を心の深いところで実際は求めている。その実、さらに心の深いところでは、自分が安全であることも知っている。それゆえ、本当は余裕なのである。

映画の鑑賞者ではなく、魂の観照者であるならば、この世の劇を眺めながら、同時に無関係で無関心であるため、常に自由であり、見ているものや、起きているように見える話に縛らたり影響を受けたりすることはなく、常に現象の背後の我すなわち神という真我を讃えている。非実在の背後の実在の美しさを永遠に賛美し続けている。目の見えぬ者は、この世の見た目に巻き込まれる。目の開いた者は、自己を映像の中の個人だと錯覚しないため、劇からは退いており、劇や脚本や演出の背後の神つまり実在のみを知る。肉眼は、一億年後は発達した世界を映し見るだろうが、時代という、いかなる連続劇場の背後にも、永遠なる実在が変わりなく存在している。それは劇や、劇を可能にする時空間とは無関係のものである。人間の世界の劇は、人間魂を器とする霊の経験のために存在し、そのような経験から必要な教訓を学んだ後は、不要なものになり、やがては存在しないもの、実在ではないことが知られる。形態ではなく霊つまり真我が知られるからである。ゆえに、永遠に金剛不壊であり、劇が本当ではないことを知っており、本物は真我のみであることを知っており、ゆえに、安全で、いかなる現象の背後においても余裕である。

私は、他人を馬鹿にして笑わない。そういう類いのことは起こらない。子供が躓いて膝から血を流していても、父親はその後の成長を知るがゆえ、泣いている我が子を微笑ましく眺めるであろう。映画にのめり込んで絶叫する者のように、この世にのめり込んで絶叫に喜ぶのではなく、そのようなアストラル性質を統御し、さらにはメンタル物質すら統御し、まさに反対方向にむき直り、我そのものへと、そろそろ目を向け直さねばならないのではないか。いくつか統御の難しいものに関する恐怖は仕方がないが、統御できるものから順々に自由になっていくべきである。まず、その自分と思っている者の背後に魂が存在している。頭の背後に魂の世界が在る。メンタル界の上にはブッディ界が在る。アートマ・ブッディ・マナスという高位のパーソナリティーが分かったならば、それらを通して働いている霊つまり生命にいずれ意識の焦点をずらせるようになるであろう。あらゆる話や現象を可能にさせ、あらゆる形態を「生きたもの」にさせている生命自体、意志と愛と知性を通して働く生き生きとした生命のことを私と呼ぶであろう。これはどのようなフォースからも自由だが、どのようなフォースでもある。どのような形態からも自由だが、どのような形態でもある。形態と霊は別の概念だが、存在するのは霊、生命、エネルギー、神、真我、なんと呼ぼうがそれだけである。見た目では違うもの、特質的には異なるものも、真理においては同一のものである。

我々は最初からしたがって超越している。意識の焦点がずれているだけである。矯正してくれるのは瞑想を通して導いてくれる魂であるゆえ、あらゆる個人は自らの経験に飽いたならば、外からは引きこもり、沈黙の喜びに目覚めるべきである。外側が悲劇だろうが、意識は常に真の意味での喜劇を知るであろう。新しい世界は喜劇である。神の栄光の世界という喜ばしい世界である。我々の世界で神の喜劇が達成されるのは非常に先の事であるが、我々は外の住人ではないため、神の世界に帰ることがいつでも可能になっている。いつも扉は開いており、そこへと導くための力が流れている。神は助けようとしている。神に仕える神人たちも助けようとしている。助けられたあと、神の明るい未来を知るであろう。この世は悲劇だが、目醒めて、逃避願望からではなく瞑想で見出す真理ゆえに神の世界へ戻りたいと思えるほど賢くなるならば、神が導きゆく世界は栄光という喜劇である。もちろん、神の描く真の喜びと美の世界のために我々はあらゆるものを犠牲にして奉仕するが、我々自体は、本質自体は、それが高位の劇であろうとも、劇からは常に自由な本質である。言葉で表現することが絶対に不可能な真我は、とにかく、あらゆるものを常に超越している。

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